カテゴリー: 内省

  • 怒られているのを聞くのがしんどい^^

    7回目の投稿になります。今回から、

    月曜21時…内省的な投稿

    水曜21時…好きな曲の投稿

    金曜21時…好きな本(読書記録)の投稿

    という感じで投稿していきます。「投稿していきます」って言ったところで、固定の読者がいるわけでもないんですけどね^^

    ブログ投稿を生活に馴染ませルーティーン化したい意味合いもあります。長期で続けていければ、自己理解も促進されていくのではないかという感じです。

    さて、今回は「怒られているのを聞くのがしんどい」です。なんか重くなりそうなタイトルですが明るくいきます^^

    私は、他の誰かが怒られているのを聞くのがとっても苦手です。例えばオフィスで同僚が上司に呼ばれて怒られているのを同じスペースにいるので聞こえてくるみたいな感じです。なんなら、自分が怒られている方が気が楽まであります。

    そんな時、私は行きたくもないトイレに行くふりをし、数分席を外します。そして、数分経って戻ると「まだ、怒られてるのかい!」みたいな事もあります^^

    自分なりに分析してみるに、たぶん、その状況を自分ではどうすることもできないのが、いたたまれないからかなあと思ったりします。

    怒られる原因を作ったのはその同僚なんだろうし、自分が「まあまあ」みたいに介入できる訳でもないし、なんか無力感みたいなものがあるのかな。「オレ、何を聞かされてんの?」みたいに思っちゃうんですよね。

    今思い返すと、子どもの頃からそれが苦手でした。自分は関与していないケンカした2人を、先生がめっちゃ指導しているのを聞かなきゃいけないみたいなのが、すごく嫌でした。

    しかも、学生の頃は、今みたいにトイレに逃げる事もできず、ただ聞かなきゃいけないし。

    指導が必要な状況はあるだろう事はわかるので、当事者だけが別室でやってくんないかなあって、いつも思っています。

    似たような事でしんどいのが、飲食店で、ベテランのパートのおばちゃんとかが、若い新入りの女の子の働きぶりを怒ってるのが聞こえちゃってる時とかですかね。

    「お水、早く出して!」

    「ボーっと立ってないで、トレー並べて!」

    いやいや、客(私)に聞こえちゃってますけどっていう。これ、しんどいんですよね。わかってくれますかね^^

    いや、その指導は、閉店後でいいやん。それか、客のいない裏でやってくれればいいやん。もう、このやり取りが聞こえてきた段階で、頼んだ料理出てきてませんけど、帰りたくなります^^

    お金戻ってこなくていいから、帰りたい…。

    しかも、その怒ってたおばちゃんに「はい、お待たせしました!味噌ラーメンです!ごゆっくりどうぞ!」と満面の笑みで言われたりすると、もうこのおばちゃんがサイコパスにしか見えなくなってきてしまいます^^

    ただただ自分が気にしなきゃいいだけの話なんですけどね。

    色々気づきすぎてしまうのも考えものですね^^

  • ラーメン屋で「味変」できない問題

    4回目の投稿になります。レイアウトやデザインはほったらかしのままです^^

    さて、タイトルの「ラーメン屋で味変できない問題」ですが、まず、意味わかりますか?^^私は、人に気を遣いすぎるところがあって、あまり共感してもらえないと思いますが、書いてみます。

    ラーメン屋のテーブルには、色々乗ってるじゃないですか。七味唐辛子とか、コショウとか、すりおろしのニンニクとか…。

    あれ、私、使うことができないんです。

    なぜかというと、出てきたラーメンが、店主が考える最高の形のラーメンだと思うから、それに自分が手を加えることが失礼というか良くないんじゃないかと思ってしまうんですね^^

    変ですよね?

    これまで、何人かの人に話してみたことがあるのですが、今のところ誰にも共感してもらえてません^^まあ、最近はそんな自分を「仕方ねえヤツだな」と思いながら苦笑いみたいなメタ認知ができているので、本気で悩んでいる訳ではありませんが。

    なんか、相手の気持ちに寄り添いすぎてしまうんですよね。

    例えばLINEとかでも、相手からのLINEはいつ来てもいいんです。どんな内容でもいいし、写真が送られてきてもいいんです。

    しかし、自分が送るとなると、すご~く考えます。今、相手は何をしているだろう?集中してなにかやってたら申し訳ないな。いい雰囲気のカフェの写真撮ったけど、これを送ったところで相手は「だから何?」って思うかもなあ、とか。

    やや話が逸れましたが、自分がそれをされてもなにも気にしないし、不快に思ったりはしないけど、それを相手にするときには考えすぎてしまうところがありますね。

    冒頭のラーメンでいえば、例えば私がラーメンを作ったとして、食べる相手が目の前でシャカシャカ大量に七味唐辛子をかけて食べても、嫌な気持ちには全くならないです。でも、自分はそれができません。

    でも、テーブルに七味唐辛子を置いているということは、作った人もそれをかけることを許容している訳だから、かけたって全然失礼にはあたらないですよね。う~ん、でも。みたいなことを脳内でクリクリクリクリ考えてしまうんですね。

    誰か、共感してくれる人がいると嬉しいんですけどね^^

    ちなみに、髪切ってもらった時「これでどうですか?」って言われたときも、「あ、大丈夫です」以外言ったことないんですよね。勿論、最初にある程度希望は言います。だから、これが切った人が考えるベストなんだろうと思ってしまうんですね。

    誰か、理解してくれますかね^^それでは

  • ストレスに負けない器を作ろう

    1本目の投稿です。お試し感覚で載せてみます。

    「他人は変えられないけど、自分は変えられる」って言葉がありますよね。ありきたりな言葉のように思いますが、その通りだなあって最近改めて思います。

    以前(30代前半くらいまで?)は相手をなんとか変えようと努めてきたように思いますが、ここ数年は、自分の方を変えればいいという思考にシフトしてきていると思います。その方が、自身の成長にもつながるし、精神衛生上良いかなと。

    ストレスを与えてくる人、タイミングなどをこちらで制御できないと仮定すると、ストレスを感じにくい(受け流す)自分を作り上げることができれば良いということになります。こんな例を挙げてみます。

    自分の器(キャパシティとか許容量とか言い換えることもできる)を

    A:日本酒などを注ぐおちょこ

    B:お風呂の浴槽

    だとします。外部からもたらされるストレスがスポイトから垂らされる1滴の赤インクだとすると、Aの水はかなり赤く染まってしまいます。一方、Bの水は、赤インクが垂らされたことなどわからないくらい変化がないでしょう。

    赤インク(外部からのストレス)は、自分の努力では避けがたいもの。一方、自分の中にどれくらいのサイズの器を持ち、どれくらいの水を溜めることができるかということについては努力や心持ち次第でなんとかなりそうな気がします。

    この器を大きくすることでストレス耐性が高まるのではないかと考えたりしています。それを社会的には「余裕感」とか「動じない」とか言うのかもしれません。

    この可視化できない「器の大きさ」はどのように大きくしていけばいいんでしょうね。私は、それが読書であり、音楽であり、勉強である気がしています。読書で新たな感性に触れたり、勉強して様々な知見に触れたりすると、器が大きくなっていく感覚があります。

    今の私の器が「おちょこ」なのか「浴槽」なのかはわかりませんが、少しずつ大きくしていきたいなって思っています。

    こんな感じでいいのか?^^

    ちょっと真面目すぎ?文章長い?

    もしなにかの偶然でこちらに立ち寄られたあなた、コメントなど残していっていただけると嬉しいです。

    さて、投稿してみよう^^