24回目の投稿になります
近所のツルハに売っている「好烏龍(ハオウーロン)」という飲み物がおいしすぎて、毎日飲んでます。マンゴーとオレンジのジュースでウーロン茶感は全くないのですがとても好きです
私、一度気に入った物や事に出会うと浮気せず添いとげるタイプかもしれません^^昨日、箱で買ってしまいました
どうでもいい話すぎてスミマセン^^
さて、今回は「エピクテトス」です。エピクテトスって何?と思われた方もいるかもしれません。古代ギリシャの哲学者です。50年生まれとされているので、今から約2000年前の人です
エピクテトスが苦悩し、考え、主張したことは、2000年経った現在にも通ずることばかりです
少なくとも私は、5年前くらいに彼の思想に出会い、大きな影響を受けました
今回は、その思想の一部と、私がどのように受けとめたかについて書いてみたいと思います
エピクテトスを理解するキーワードの1つが「軽く見る」です
自分の人生に関わることは、大きく2つに分けられます。それは
「自分の力でコントロールできないこと」と
「自分の力でコントロールできること」です
エピクテトスは、この「自分の力でコントロールできないこと」は軽く見なさいと言いました。そして、自分でコントロールできることに力を注ぐべきとしたのです
いくつか具体例で自分なりに考えてみました
- 自然災害
例えば地震はいつ来るかわかりません。南海トラフ地震が今後30年で起こる確率は80%と言われても、それは明日かもしれないし30年後かもしれない。これは、自分でコントロールできないことにあたります。それに脅えても仕方がないですよね
コントロールできることはなにか。それは、水や食料の備蓄であり、避難経路の確認だと思うのです
- 他者の行動
例えば、自分が相手に何かをしてあげた時。「こういう感謝の言葉があるんじゃないか」「こういう反応をしてくれるんじゃないか」と思う気持ちはあると思います
でも、それが全くないとします
この時、「おかしい!」「不義理だ!」と思っても、相手の気持ちや行動はこちらのコントロールの外なので、仕方がないと「軽く見る」ことがエピクテトス的には大切だということなんですね(難しいですけどね^^)
私も、相手に何かをしてあげた時は、した時点でそれはもう自分の中で完結!と思うようにしています
モヤモヤ感が全くないのかと言われれば0ではありませんが、コントロールできないことに執着しても仕方がないですからね
来るもの拒まず去るもの追わず的なところがあるのかもしれません
逆に、義理堅くお礼をしてくれる方は、尊敬の対象になったりします
今思いましたが、そもそも、「してあげた」という表現自体、見返りを期待している感じで良くないかもしれませんね^^
私もまだまだ修行が足りません^^
さて、エピクテトスが他の哲学者と大きく異なる点が1つあります。それは、彼が奴隷身分であったということです
働くこと、食べること、寝ること、生きる上でほとんどのことを制限されていました。しかし、ここで彼は思うのです。ただ1つ自由なものがあると
それが「意志」です
考えること、試行錯誤すること、決断することは、誰からも奪われることはありません。こんな貴重な「意志」を、他人に渡していい訳はない
自分が何をしたいのか、何を大切にしたいのかが最も大切なのだ、と彼は言うのです
私は数年前に適応障害を発症し、前職を辞めるまでは、世間体や周囲の目、こうあるべきという社会規範に縛られて生きてきました
今となってはすごく恥ずかしい話ですが、私は、高校進学も大学受験も、就職も、親の考え(誘導)に引っ張られて生きてきました
一例を言いますと、国語と社会科が好きなのに、高校は成績が足りているという理由で、普通科より1個レベルの高い理数科へ行きました(なにやってんだ^^)
このような「他人軸で生きてきた自分」については、今後このブログで大いに語ろうと思います^^
今は、その反動もあってか、かなり自由を謳歌しているという自覚があるし、なにより毎日が楽しいです^^
「自分の人生、やりたいように生きる!(ミスったら、その都度考えよう^^)」
そんな現在の自分を形作る一助となってくれたエピクテトスには、ホント感謝しています
文字があって、本があって、ホントに良かったです^^
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