カテゴリー: 内省

  • ♯141 車を無限に運転できる男^^

    141回目の投稿になります

    今回のタイトルは「車を無限に運転できる男」です

    はい、私のことです^^

    私、なんでかわからないんですけど「運転しても全く疲れない」という特殊スキルを生まれ持って備えているようです^^

    運転、楽しいんですよね~

    エンジンの回転数をできるだけキープしながらスムーズに加速、減速

    周囲の車の動向を把握しつつ、右左折や車線変更

    カーブではライン取りを意識してスローイン、ファーストアウトで同乗者が酔わないように滑らかに

    路面状況や天気、日差しなども考慮して

    などなど

    私の自家用車含め、今はほとんどの車がオートマになりましたが、バスはいまだにマニュアル車がほとんどなので、クラッチを踏んでギア操作も加わると、両手両足すべて使って本当に滑らかに運転する事ができて楽しいです

    私が運転好きなのは、「注意力を要するけど、そこまでは要しない」所だと思っています(なんか急に語彙力なくなった^^)

    まずは、一人で運転する時です

    このブログで書くような内容について、「あれ?これってこういう事じゃね?」みたいな閃きというか、考えの核心みたいなものが運転している時に思いつく事が多いです

    感覚的には「思いつく」というより「降ってくる」みたいな感じ?

    スミマセン、少しかっこつけました^^

    詳しくは忘れましたが、中国のなんかの本にも、アイディアが思いつく場所として「三上」とかってありますよね

    「馬上」「枕上」「厠上」だったような

    馬に乗っている時、横になっている時、トイレに行っている時

    私の運転は「馬上」と同じなのでしょう

    私の肌感ですが、アクセルを踏む足の動き、ハンドルを回す手の動き、景色や交通状況が変わる時の目の動きなどの程よい五感刺激が、脳を適度な活性状態にさせるのではと考えています

    同乗者がいる時も、運転は私に多くのメリットをもたらします

    私、人と話すときは緊張してしまう事が多いのですが、運転している車内だと緊張しにくいんですよね

    意識の何割かが運転に向いているので、会話そのものに過剰に集中しない感じが、適度に力が抜けて自然な感じになるのではないかと思っています

    対面じゃなく、2人が同じ方向を向いているというのもいいんですよね^^

    旅行などのお出かけも、車で行くプランを提案しがちです^^

    行き帰りの時間も、会話や音楽の時間として楽しめる的な感じです

    私は今、バス運転手をしている訳ですが、転職の際のきっかけとなったのが、なんかの本で読んだ

    「他の人は大変な思いをしてやっているのに、自分は苦もなく普通にできちゃう事。それが、あなたに向いている事かもしれません」的な言葉です

    メンタルをやっていたのもあって、その言葉にすがるように全くの異業種のバス運転手になった訳ですが、今のところ正しい選択だったと思っています^^

    誰しも、なぜかはわからないけど、自分には苦もなく楽にできちゃうみたいな事があるのかもしれませんね

    都市部にお住まいの方は、公共交通機関で十分でしょうし、駐車場や自動車税など維持費も高いので大変な部分もありますが

    運転、いいですよ~^^

    いまだに求人の条件に普通免許所持を課している企業も多いですし、取っておいて損はない資格の1つだと思いますね

    あ、これは余談ですが、車の運転は性格が出ると思います

    特に、普段隠されている本性みたいなものが露見される事が多い気がします

    車の中って、周りの人や車から直接何かを言われる環境じゃないので、荒い運転をしたり、周囲の車に文句を言ったりしても、もめ事になる可能性は低い場所なんですよね

    だから、車の運転でイキる人、私、ちょっと(いや、だいぶ)苦手です^^

    最後に人の悪口言って終わる、良くない投稿になってしまいました^^

  • ♯140 1:2:7の法則

    140回目の投稿になります

    ユダヤ教の教えに、こんな言葉があるようです

    「10人の人がいるとしたら、そのうちの1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人を好きになれない。そして10人のうちの2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人だ」

    精神科医の樺沢紫苑さんなどは、これを「好意の1:2:7の法則」などと呼んでいるようです

    さて、私の体感ですが、この「嫌い1:好き2:中立7」の割合って、なんとなく合っている気がします

    40人学級だとしたら、なんか嫌な事を言ってくるのが4人、仲良く過ごせる人が8人、普通に空間を共有している人が28人みたいな感じ

    仕事でも同じ感じがしていて、クレーム付けてくる客4人、お礼の言葉を言ってくださるお客様8人、無言で清算していくお客さん28人みたいな(呼び方で差別するのやめなさい^^)

    以前の私は、自分とは合わない1割の人とも、関係性を良くするよう努力すべきだと考えていたように思います

    相手の価値観に無理やり合わせたり、時には「これは優しさだ」と自分を勘違いさせて自己犠牲的に労力を割いていた気がします

    ひどくなると、「そういう態度を取ってくるのは、自分に原因があるからだ」とか思っていたりしました

    自己肯定感の低さって、ホントにやっかいですよね^^

    相手が悪いのに、それを自分がダメだからとか、自分の努力が足りないからだとか解釈を置き換えてしまう

    でも、近頃の私は、「切る」「あきらめる」というスキルをゲットしました^^

    合わない人とは物理的、心理的に距離を取る

    ケンカするでも攻撃するでもなく、ただただ接触回数を減らし、自分の認識からその人を抹消する(表現が怖い^^)

    私の大事な大事なリソースを、合わない人に使うのがもったいないと思うようになりました

    それなら、自分と馬が合う、自分を大事にしてくれる2割の人や、普通の関係である7割の人と仲良くなれるための事にリソースを使うべきではと心から思います

    ユダヤ教について私は全く詳しくないですが、そういう書物に

    「誰からも嫌われないなんてムリだから、諦めな」って書いてあるのって、けっこう勇気づけられます^^

    んで、これを書いていて1個気が付いた事があります

    それは、「中立の7割の人の存在をしっかり感じる事」です

    やや抽象的な感じがしますので、イメージを説明してみます

    人間関係を「好き・嫌い」でとらえすぎてしまうと、この「どちらでもない中立」が意識の外へ行ってしまう感じがします

    100人を例に考えると、嫌い10人、好き20人、中立70人なのに、その70人がどっか行って

    「嫌い10」と「好き20」しか見えなくなります

    すると、母数が30に見えてきて「10:20、つまり1:2か。自分を嫌っている人が33%もいるのか」と自分と合わない人の割合を過大に見積もってしまう恐れがあるように思います

    それならば、中立の人を「少なくとも私の事を嫌ってはいない人」ととらえて

    「嫌い10:嫌ってはいない90」みたいに置き換えた方が生きやすそうです^^

    後半は、ただ数字をこねくり回しただけになった気もしますが

    この「1:2:7の法則」は、全員と仲良くできるわけはないし、それは自分が悪いからではないと思わせてくれる、良い気付きにつながる言葉だなと思いました

    特に、なにかあった時にそれを自分のせいにしがちな人には、憶えておいて損はない言葉なのかなと

    何をしたって、何を言ったって、否定してくるやつは一定数いるんだよ^^

    寒暖差の大きいここ数日ですが、温かい飲み物でも飲んで、ゆったりとした気持ちで過ごしたいものですね

    今日は遅番勤務なので、私はこれから出勤でございます^^

    読者様もどうぞご自愛ください

    のんびりいきましょうね^^

  • ♯136 神社で手を合わせた時に…

    136回目の投稿になります

    先日、貸切バスの仕事で札幌に行きました

    コースは円山動物園→北海道神宮→大倉山のスキージャンプ場でした

    北海道神宮で1時間半ほど滞在時間がありまして、体調不良等でバス車内待機のお客様もいないという事で、私も境内を散策しました

    拝殿のお賽銭の所へ行き、手を合わせようとしたら、現金を持っていない事に気付き^^

    大変申し訳ないのですが、お賽銭を入れずに手を合わせてきました

    キャッシュレス時代、恐るべしですね^^

    お賽銭箱の横にQRコードを読み取れる決済機が置かれるのも、そう遠くない将来にあり得るかもしれませんね^^

    そんな事はどうでもいいんですが、手を合わせていた時

    「あれ、私、何をお願いしようかな」って思ったんですね

    ここから思想的な話になりますが、手を合わせてお願いをする行為について、ふと違和感を覚えたんです

    「次のハーフマラソン2時間切れますように」とか「漢検合格できますように」とか「大金持ちになれますように」とか^^

    なんでもいいんですが、お願いしたところでそれが達成されるかどうかっていうのは、自分の努力次第じゃないですか

    という事は、手を合わせた時の正しい形としてしかるべきなのは

    「ハーフマラソン2時間切れますように」というお願い形式じゃなくて

    「ハーフマラソン2時間切ります」という宣言形式なんじゃないの?

    とかって思った訳です

    こいつ、まためんどくさい事を言い始めたなとお思いでしょうが、もう少しお付き合いください^^

    私この頃、自分軸的なものが形成されてきたと実感していて、そうすると目標に向かって頑張るのって、誰か(神様)にお願いするような事じゃないと思っちゃうんですよね

    そして、達成できたとしたら「神様ありがとうございました」っていうのも、ちょっと違うのではないかなとか思っちゃいました^^

    頑張ったのは私です!みたいな^^

    そうすると、神社で手を合わせる時は

    「私、○○を達成するために頑張るんで、神様見ててね!」

    的な感じがいいのかなと思いましたね

    前にも書いた記憶がありますが、私は何か目指したい目標ができたときは、人に宣言します

    私、まあまあプライドが高い人なのではという自認があるので、宣言する相手は、なるべく自分にとって近しい人だったり、大切な人だったりにします

    そして、宣言したからには達成できないとカッコ悪いよね、という感じに自分を追い込んでいく訳です

    そういう、宣言をする対象の一人として、「神様もよければ聞いてください」みたいな感じでこれからは手を合わせたいと思います^^

    なんか実のない話になってしまった^^

  • ♯133 「巨人の肩に乗る」が私には最高すぎた

    133回目の投稿になります

    さて、今回は「巨人の肩に乗る」です

    私は、この言葉を知ったことで生きるのがかなり楽になりました

    真面目なあなた、考えすぎてしまうあなたに向けて書きます^^

    「巨人の肩に乗る」という言葉は、ニュートンが残した言葉とされています

    意味としては、「先人の積み重ねた発見に基づいて新たな何かを発見すること」とあります

    万有引力の法則を発見したニュートンですが、その発見は、ヨハネスケプラーが発見した惑星の運行に関する法則などを基にしている

    つまり、ケプラーら先人の学びを「巨人の肩」と表現し、それらがあったから自分の発見は達成された。これを「肩に乗る」と表現した訳です

    あ、ちなみに、私は文系です^^すごく詳しいかのように書きましたが、全てマンガ「チ。」の受け売りです^^

    さて、それが「内省」にどうつながるかということですね

    今はほとんどなくなりましたが、私は、何かにつまずいたり、悩んだりした時に、次のように思う傾向がありました

    それは「この悩みを抱いているのは、自分だけじゃないだろうか」ということです

    それが発展すると「こんな自分はおかしいのではないか」となり、どんどんネガティブがスパイラルしていきました^^

    でもね、近年はYouTubeを始めとする様々なプラットフォームで、様々な人がたくさんの事を発信しています

    そうすると、例えば「うつ」「生きる意味」「人間関係」みたいな事で私が悩んでいたとしても、少し検索すれば、その対策や同じように悩んでいる人の思いなどを知る事ができます

    これによって、まずは「あ、悩んでたのって自分だけじゃないじゃん。身近にはいないけど、画面の向こうにはこんなにたくさん同士がいるじゃん^^」って思えてきます

    すると、「この事で悩んでいるのは自分だけ」という感情が少し恥ずかしくなってくるというか、特別じゃないじゃん、普通じゃんって思えるようになってきて、気持ちが楽になります

    あとは、私の悩みのほぼ全ては、同じように悩んだ先人がいて、対処法やマインドをすでに示してくれているという事です

    なんか、仲間意識が芽生えます^^

    私は、なにか悩みを抱えたら、その悩みに関する本を読んだり、SNSを見たりして情報を集めます

    それらを自分なりに吟味しつつ、これまでの自分の経験などを加味して方向性を見いだす事が多いです

    そして、すごーくすごーくおこがましいのですが、私も発信者になってみたいと思い、このブログを始めてみたという事もあります

    もし、もしですよ^^もし私のブログにたまたまお越しいただいた方が私の文章を読んで、前向きになれたり、行動を起こすきっかけになれたりしたなら、この上ない幸せだなと思ったりしています^^

    これからも私は、たくさんの「巨人」の肩に乗せてもらって人生を歩んでいきたいし

    誰かを乗せる「巨人」になれたらなって思いながら、世界の片隅でひっそりとブログ書いていきたいと思っています^^

  • ♯131 「徳を積む」ってなんだ?^^

    131回目の投稿になります

    さて、今回は「徳を積む」について考えてみたいと思います

    きっかけは、ヨルシカが映画館でライブの上映会をする事を知った事です

    そして、チケットの当選は抽選とのこと

    suisさんの生の歌声を映画館の立体音響で楽しめる

    こんな機会はなかなかないし、叶ったら泣き確定な気がします^^

    「何とか当たってほしい!」と思った時に、ふと頭に浮かんだのが

    「よし!今日から徳を積むぞ!」でした^^

    「徳を積む」の定義としては、「徳」とは良い行いのことであり、「良い行いを重ねること」とのこと

    でも、徳を積むのと抽選に当たるのって関係ないよな~とも思ったり^^(そんな事思ってたらチケット外れるぞ^^)

    こんな感じの事があって、「徳を積む」とはなにかについて考えてみました

    中国の思想書「淮南子」には「陰徳有る者は、必ず陽報有り」という言葉があるようです

    意味は「人知れず徳を積めば、必ず良い知らせがある」

    「徳」には「陽徳」と「陰徳」の2つがあり、「陽徳」は善行を人に直接感謝されたり表彰されたりするもののこと

    一方「陰徳」とは、人知れず行う善行で、見返りや礼を求めないもののこと

    私は、スピリチュアル的なものは全く信じていません^^ゼロです^^

    占いも宗教も全く肌に合いませんし、むしろ嫌いです(悪く言い過ぎ^^)

    だから、人知れず行う良い行いが、ヨルシカのチケットの当選確率を上げるとは思っていません

    私の行いを神様が見てくれていて「よし、頑張ってるお前には、チケットを授けよう」みたいなイメージは皆無です^^

    でも、良い行いを重ねた上でチケットが当選すれば、私はそのライブをより楽しめるのではないかと思います

    そして、チケットの価値も、より高く感じられるのではないかと思ったりします

    仮にチケットが外れたとしても、良い行いをした自分は残るみたいなイメージも持てるので、やる事で損はないかなと思いますね

    ただ、自分の性格上、気を付けなきゃと思うのは、善行はちょっとの事にしようという事です

    多額の寄付をするとか、人に尽くすとか、自己犠牲に向かわないようにするということです^^

    私は、この3日間でやってみた「徳」は、こんな感じです

    ・朝ランしてる時、車も人も全然いない小さな交差点の赤信号をちゃんと待った^^(普通だろ^^)

    ・職場の休憩室を通りがかった時、誰もいないのに電気が点いていたので消した^^

    ・スーパーで買い物していた時、調味料コーナーになぜか明治ミルクチョコレートがあったので、お菓子コーナーへ行き所定の場所に戻した^^

    書いてる途中に思ったけど、これらって「徳」ですか?^^なんか善行のレベルが低い気がしてきた^^

    でも、こんな感じで過ごしていると日常がちょっぴり楽しくなる気がするし、いいかと思っています

    チケットの当落発表が10月2日なので、それまで陰徳を重ねてみようと思います

  • ♯127 ♯127ナンバープレート「830」で荒い運転をするのってどういう心境?^^

    127回目の投稿になります

    めちゃめちゃどうでもいい事をぼやきます^^

    私、バス運転手なのですが、まあバスは遅いんで後ろから煽られる事もしばしばあります

    先日も、後ろから左右に蛇行して、ライトをパッシングされるという「ザ・煽り」みたいな事をされたんですが

    追い越し車線になり、その車は猛スピードでバスを追い越していきました

    その車に、こんな特徴がありました

    ナンバープレート830

    後ろのガラス面にデカデカと「E、YAZAWA」のプリント

    ナンバープレート830はヤザワで、歌手の矢沢永吉さんのファンが付ける事が多いようです

    この時、私は「?」で頭が埋め尽くされました

    ちょっと私の脳内、書いてみます^^

    「ナンバー830が車を煽った→煽った人は矢沢永吉さんのファンだろう→煽られたこっちはイヤな気持ちになっている→矢沢永吉ファンってこういう挙動をする人いるんだ→しかも、矢沢永吉ファンとわかるナンバーとプリントで煽るんだ→これ、間接的に矢沢永吉さんの評価を自ら下げている事に気付いてない?これは意識的?無意識的?→どっちにしてもアホという事でいい?」^^

    「○○会社」みたいな社用車で煽る人も同様です

    会社の看板背負った車でなにしてんの?って思いますね^^

    その会社に電話したろかなとか^^やんないけどね^^

    そもそも私、ナンバープレートに思想を乗っける人がそんなに好きじゃないかもしれません^^

    1122は「いい夫婦」だと思いますが、いい夫婦かどうかは周囲が評価する事であり、自分たちからのアピールはしない方がいいのでは?とか、逆にあんまり仲良くなかったりする?とか思っちゃったり^^

    358みたいなラッキーナンバーとかも、安全運転を「運」の問題として捉えるって、ちょっとどうなんだろう?とか思っちゃったり^^

    そのようなナンバーにしている方いらっしゃいましたら謝ります^^

    あくまで、個人の思想という事で^^

    あ、あと、矢沢永吉さんには何の罪もありません

    世代的にあんまり詳しくないし

    以上、ただのしょうもないボヤキでした^^

    季節の変わり目、この時期私はいつもお肌の調子が良くないです

    無理せず1日乗り切りましょう!

  • ♯126 返報性の心理のないずっとテイカーの人

    126回目の投稿になります

    「返報性の心理」という言葉があります

    定義としては、相手から親切にされたり、なにかを与えられたりすると、その相手になにかお返ししたくなる心理とのことです

    私は、自分の事をいい人ぶるつもりはありませんが、返報性の心理を持ち合わせていると思います

    というか、このように名前のついた「心理」として紹介されなくとも、人として当たり前の感覚ではないかと思っています

    してもらった事に対して、なにで返せばいいだろうと悩む事は多々あります^^

    ○○さんはなにが嬉しいかな?物?お金?体験?物だとしたらなにをあげたら喜んでくれるかな?予算はどうしようかな?それなりの価格帯の物をプレゼントしたいけど、高すぎると逆に気を遣わせるかな?

    など、幾重にも枝分かれしたルートを探りながらお返しの物(事)を選びます

    このパターンは、自分にとってすごく良好な関係性です

    相手がなにかしてくれたという事は、少なくとも私は嫌われてはいない

    そして私もそれにお返ししたい

    このギバーとギバーの関係は「ありがとう」と「ありがとう」が行き交う関係であり、私にとっては安心であり、安定であり、末永くお付き合いを続けたい相手と思えます

    さて、ここからです^^

    私が先に相手になにかをした場合です

    上の関係性のようにお返ししてくれる方がほとんどですが、中には返報性の心理というものがなく、ずーーーっとテイカー気質の人がいるという事もわかってきました

    ここから先は、私の個人的な考えになります。いつもより偏見が多めかもしれません。ご了承の上、読み進めてください^^

    あ、前提として、私は見返りを求めている訳ではまったくないです

    困っている人がいたら助けたり手伝ったりする、それだけの行動です

    ただ、40年ほど人生を重ねてきた経験で言うと、その善意を「こいつはもっと利用できるかも」と、ゆがんだ認知を発動させてしまう人もいるという感じがします

    そういう人は、相手をよく観察していると思います

    「この人は、自分より上か下か」

    「気が強そうか弱そうか」

    「反論したり立ち向かってきそうか、そうではなさそうか」

    その人の評価軸の中で「この人はいける」と判断すると、お金、時間、感情などを奪いに来る感覚があります

    私も若い頃は、断るのがすごく苦手で、自分じゃない仕事を振られても我慢してやったりしていました(正直に白状すると、いまだに断るのは苦手です^^でも、仕事や人間関係において、だいぶできるようになってきたと思います)

    そういうテイカー気質の人は、周囲の人全員にそういう態度を取る事は少ないです

    いけそうな人を見定めて、少しずつ要求を大きくしていきます

    そして「これが最後だから」とか「君以外に頼める人はいない」とか言いながら、ゴールポストを動かして何度もお願いをしてきます

    この世界の「ありがとう」の言葉は相手からの一方通行です

    だって、こちらが「ありがとう」と言える要素がないのですから^^

    もっと言うと、相手の「ありがとう」は

    「(私のために頑張ってくれて)ありがとう。(また次もよろしくね)」

    の短縮バージョンだと思っています^^

    前段のギバーどうしの「ありがとう」とは、意味合いがまったく異なるんです

    いやー、今回の投稿はなにか筆者の熱を感じますね^^

    まるで、過去にエグいテイカーの人と付き合って痛い目をみたかのような書きっぷりです^^

    もう少し続けます

    じゃあ、この関係性を変えていけばいいじゃないかという結論に過去の私はなりました

    その頃の私は世間知らずで、返報性の心理みたいな感情は全員デフォルトで備えていると思いこんでいました

    だから

    「いつかこの人からもお返しがあるだろう」とか

    「いつかこの人も気付くだろう」とか真面目に思っていました

    でも、もう私はわかっています^^

    そんな日は永久に訪れないことに^^

    人はそう簡単に変わらないという事に^^

    テイカーはずっとテイカーのままです

    甘い言葉やその場をやり過ごす言葉ではなく、その人の行動や今までの結果を評価軸にします

    だから私は、テイカー気質の人だなと思ったら、する事はただ1つと決めています

    それは

    「自分からその人と距離を取る」です

    もし、それまでにお金や労力を取られていたとしても、それを取り返そうとか、改心して私に与えてくれるはずとか思わず、即座に損切りして関係を切る

    経験則ですが、そういう態度をこちらが取ると、相手は「こいつは、思い通りに動かせないめんどいヤツになった」と思うのか、離れていったりしました(新たなターゲットを探しに行った?^^)

    あ、なんか、熱く書いてしまいました^^

    でも、テイカーの人を「いいなあ」と思う所も1個だけあります

    それは、助けを求める力です

    私は、自分が困った時に誰かに頼ったり、本音をぶちまけて助けてもらったりという事が本当に苦手です

    テイカーの人は、良い悪いは別として、軽々と助けを求め、お返しもせず漂々としています

    ある意味、自分にはない才能だなと思ったりしますね^^

    私は、ギバーの人どうしで感謝しあいながら心穏やかに生きていきたいです^^

    今日も長くてスミマセン

  • ♯121 カバンにマスコット1個の人とは仲良くなれそう^^

    121回目の投稿になります

    タイトルからしてアホ回の雰囲気たっぷりですね^^

    めんどくさい男の偏見たっぷりの考えに少しだけ付き合ってみてください^^なんか今回は賛否ありそう^^

    カバンにマスコットやキーホルダーなど付けている人がいますね

    私は、それに「その人の思想」を感じてしまいます

    個数、種類、統一性などなど

    その中でも、マスコット1個だけ付けてる人とは仲良くなれそうな気がします^^

    マスコットを付ける行為って

    「私は〇〇が好きな人なんですよ~」っていう外向けのアイデンティティの発露なのかなって思います

    そうすると、たーくさん何種類も色々付けている人を見ると、気持ちが移ろいやすい人なのかなとか思っちゃいます^^

    カバンに10個くらい付いていて、それが、プーさん、ちいかわ、シナモロール^^

    ジャンルのばらつきというか、思想のばらつきというか、この中のどれが一番好きなんだろうとか思っちゃうんですよね^^

    私がマスコット1個だけの人と「仲良くなれそう」と思うのは

    1個の人って、一途感(いちずかん)があるというか、「自分はこれが好き」っていう確固たる信念みたいなのが窺えるからです

    なんか、信頼できそうな人って思えます^^めちゃくちゃ偏見に溢れていますね^^

    例えばSnowmanが好きで、ラウル、めめ、阿部ちゃんなどを1個ずつ合わせて9個とかなら、統一性があっていいと思います(無駄にSnowmanに詳しい^^)

    この場合は、Snowmanとして「1個」みたいな感じです

    なんか、ものすごい偏見を書いてしまっている気がします^^

    私、カバンにマスコットとかキーホルダーとか付けた事ないんです

    なんか、自分の思想を外向けに発信している感じがして、なんか違うなって思っちゃっています

    誰もお前のカバンなんか見てないから好きに付けろって感じですけどね^^

    だから、1個だろうが10個だろうが、付けれる人って自分の「好き」を表明する事にためらいがない感じがして、少し羨ましいと思ったりもします

    という事で、私も、先日行った武豊展でピンバッジ1個買ってみました

    カバンに付けてみようと思います

    何の益もない話にお付き合いいただきホントにスミマセン^^

  • ♯119 優しさとか真面目さとか強さとか②

    119回目の投稿になります

    本日2本目です^^

    前回の投稿で「優しさ」「真面目さ」「強さ」について改めて定義づけてみようと書き始めた結果、優しさのみで文字数オーバーとなりましたので^^今回は、その続き「真面目さ」「強さ」について書いてみたいと思います

    ・真面目さ

    私はこの言葉を良い意味でとらえてきました

    それは「しっかり頑張ることのできる」という意味合いであったり、「社会規範を外さない」という意味合いであったり…

    もちろんそれらはいい事ですし、現在の私もそうでありたいと「基本的には」思っています

    しかし、この「真面目さ」、負の側面の方が大きいなというのが今の正直な考えです

    それは「必要以上に頑張りすぎてしまう事」と「限界を超えて頑張っている自分に無自覚である事」です

    ダメかもと思った時に「もう無理です」と白旗上げて逃げるという意識が、私にはもっともっと必要なのだと思います

    適応障害になって休職、または退職となっても職場の上司や国は面倒を見てくれません

    収入がなくなったり、生活が維持できるか不安を覚えたり、将来の展望が見通せなくなったりしても、それを何とかするのは自分以外にいません

    心身をすり減らして仕事をしたとして、病気になったらそれは自己責任として返ってくる

    例えば教員という仕事なら「社会に役立っている」とか「この生徒のために」みたいな感じで自分を捧げても、その生徒が、同僚が、ダメになった私の生活保障をしてくれる訳ではないのです^^

    それなら、最も大切にすべきは「もう無理かも」という自身の心の声なのではないか

    つまり、あきらめるとかやめるとかいう事をもっと気軽にポジティブに考えていいのではという事です

    私が思うには、この真面目さの原体験は、幼少期の「習い事」にあると思っています

    教室に見学に行って、いいかもと思って、親も賛成して習い始めて、1か月くらい経ったときの「あれ?そんなに楽しくないかも」の気持ち、共感していただけますか?^^

    そして、それを「始めたばっかだし、お金もかかってるし、親に言えない」の気持ちもわかりますか?^^

    そして、気乗りしないまま通い、それが少しずつ日々のメンタルを蝕んでいく感じ

    長くなりそうなので、この「習い事問題」は、またいつか書いてみたいと思います^^

    私にとっての真面目さとは

    「普通の人ならもう無理と言ってやめてしまう事を、限界を超えて頑張りすぎてしまう良くないこと」

    と今は再定義してみました

    ・「強さ」

    強さについては、考えた結果、以前と変わらない結論に落ち着きました^^

    それは、殴り合ったり、大声で威嚇したりケンカしたりする事が強さではないという事です

    例えば学生時代、当時お付き合いしていた彼女と歩いていたとき、数人の不良にからまれた事がありました

    その時、私は、前を遮られたりからかわれたりしたんですが、ヘラヘラして「すみませーん」とか言って、その場をやり過ごしました^^

    そして、後日「この前のあれ、なんかダサかった」という理由で彼女にフラれました^^

    でも、その時は「なんだコノヤロー」っていきがる事が正解とは到底思えなかったんですよね

    自分のみならず、下手したら彼女にも危害が及ぶかもしれないでしょうよと

    もう1つ例示してみます

    仕事で頭ごなしに怒られたりする事があります

    仕事柄、すごく昭和的な古い気質が残る職場なんで、理不尽なすごまれ方をする事もしばしばあります^^

    そういう時は、自分的に絶対外せない価値観を揺るがす事以外は、私は「すみません」と謝ります

    「それはおかしいと思います」とかは言わない事が多いです

    私の中の「強さ」の意味は、「負けれる事」だと思っています

    これは今も変わっていません。例えば彼女とすすきの歩いてて怖い人たちにからまれたら、笑顔で頭ペコペコしながらめっちゃ謝ると思います^^

    負ける事ではなく、負けてあげられる事

    見えている世界では負けているけれども、自己の精神世界としては勝っている

    こちらの方が「視座が高い」という認識です

    あ、でもこれは、この感覚を理解してくれる人でないと「ただの情けないヤツ」としての評価で終わります^^以前の彼女のように^^

    という事で、「真面目さ」「強さ」について改めて定義づけしてみました

    聞き触りのいい言葉、否定されにくい言葉の一般的な定義が自分を苦しめる事ってありそうですよね

    書いてみて、なんかちょっと気が楽になった感じがします^^

  • ♯116 優しさとか真面目さとか強さとか

    116回目の投稿になります

    「優しい」とか「真面目」とかって、いい事だと思いますか?

    「強さ」ってなんだとおもいますか?

    この書き出しで

    「あ、なんかこいつ、重めの話をしそうだぞ」と思った方は、常連様かもしれません^^

    前回アドラーについて書いた時の「何があったかではなく、どう解釈したか」を、最近色々な事に当てはめて考えています

    そうすると、最近は「当たり前を疑う」というか、今までの自分の価値観を再定義してみようみたいな感じになっています

    うまく言えてない気がしますが^^例として「優しさ」「真面目さ」「強さ」について、今の自分なりの解釈を書いてみたいと思います

    自分の中の感覚的な話なので、やや抽象的になるかもしれませんが、ご容赦ください^^

    ・「優しさ」

    →人に優しくしなさいと育てられてきました

    これについては異論ありませんし、人に優しくできる自分でありたいと思っています

    優しさに対して優しさで返されるとすごく嬉しいし、同じくらいのギブとギブの関係になれたときは、そういう人との縁は絶やさずにいたいなと思ったりします

    しかし、優しさという言葉の中に安住してしまうと、私は「あれもこれも優しさだから」と思考停止に陥りやすい人だとも思います

    例えば、何でも相手任せになって優柔不断で決断力が乏しくなったり…

    相手に嫌われないように我慢してしまっている現状であっても、それを「献身的な優しさ」と自らをだますような解釈をしてしまったり…

    本質は自分の意志の弱さなのに、「優しさ」という言葉で自分を納得させ、自己犠牲を加速させてしまう事もありました

    これは、自己肯定感の低さというか、自信のなさからきていて

    「もっと優しくしないと、この関係は維持できないのではないか」

    と考えてしまうからかもしれません

    でも最近は、自分が無理を重ねて維持される関係性は長く続かないよなって思って

    大事な人にこそ、なるべく素の自分を出してみようと思ったりしています

    「私は、基本優しい人間だ。だから、私が素の自分を出しても、失礼な感情を抱かせる事にはならないはずだ」

    という風に自分を信じて、怖いけど素直な自分を出してみるってのを最近は意識しているかもしれません

    思い返すと、私は、優しくすることのモヤモヤをずっと抱えていた気がします

    相手に優しさをもって接しますよね

    でも、相手からは優しくされない

    そうすると、自分も相手に優しく接したくなくなる

    今は、「どう頑張っても合わない人っているよな」とか「なんだアイツ」って思えます^^

    でも、以前の私は

    「誰に対しても優しくしないといけないのに、この人には優しくできない。って事は、そんな自分はダメなんじゃないか」的な思考に陥っていました^^

    良くないですよね^^でも、以前の私は、絶対に優しくしなければ!優しくできない自分はおかしい!

    みたいにネガティブな矢印が自分に向いてしまっていた気がします

    優しい事はいい事だけど、優しくする事にこだわって自分を殺してしまうような事は良くないなって思えるくらいには成長したかもしれません^^

    気付いたら、もう1300字も書いてしまいました^^

    すごーく感覚的で抽象的な事を書いてしまいましたが、付いてこれましたか?^^

    真面目さと強さについての考察は、次回にしたいと思います

    こういう感じで、優しさや真面目さについて考えながら走っていたら、気付いたら10キロ走ってました^^

    マラソン大会の本番も、少し重めの議題を用意して考えながら走る作戦もあり?なんて^^

    そしたら、時間を忘れて距離を稼げる?

    あ、でも、それだと大会自体を楽しめなさそうなんで、やっぱやめます^^

    では、また次回に

    いつもありがとうございます