カテゴリー: 内省

  • ♯107 ケガしましたー^^

    (あぶなっ!)

    と思った時には、右の足首は道路脇の側溝のふちでぐにゃりと曲がっていた

    気温28度のよく晴れた午後

    イヤホンを両耳に突っ込んだ自転車の高校生は、こちらを一瞥しただけで、しゃがみこむ私に声をかける事もなく立ち去った

    私は、月末に行われるフルマラソンの大会に向け、ジョギングをしていた

    普段は気を付けているのだ。小道から車が出てこないか。歩行者はいないか

    今日の高校生は、その子の家の生け垣の間から急に出てきた

    ノールックで出てきた高校生も悪いが、それを予見できなかった私もたぶん悪い

    ケガをした

    今年の目標を「8月末のフルマラソン完走」に定め、着実にステップを刻んできた

    そして、本番3週間前に、これ

    整形外科に行くと「右足首の捻挫。骨には異常なし。2週間程度の安静が必要」とのこと

    1月にウォーキングから始め、1キロ走れるようになり、3キロ走れるようになり、10キロ、ハーフ、30キロと大会での完走を積み重ね、順調に来ていた今になって、これ

    「禍福は糾える縄の如し」

    ああ、漢検の問題に出てきたな

    「良い事と悪い事は表裏一体であり、かわるがわる来るものだ」

    40を過ぎると、人生の節目は自分で作らないと何も起こらない事に気付き始める

    若い頃は、入学、受験、卒業、成人式など、その時期が来れば節目は外からやってきた

    大人になると、節目は自分で作らないとやってこない

    自分で用意する節目

    その1つがマラソン

    初めて挑戦するフルマラソンで、直前に2週間休む事が何を意味するのかはわからない

    でも、人生もそんなものかもしれないと思ったりもする

    どんな外部要因があったとしても、どう行動するかは結局自分

    今までの数値、練習過程が私の背中を押す

    自分を前向きにさせてくれたのがマラソン

    これで完走出来たら、喜びもより大きくなるだろう

    今まで頑張ってきた自分に期待してみよう

    ―――――――――――――――

    107回目の投稿になります^^

    短編っぽく、ケガした事について書いてみました^^

    端的に言ってショックですけどね

    まさに「禍福は糾える縄の如し」

    順調に行っている時にこそ落とし穴がある

    でも、言い換えれば、うまくいかない事があっても、浮上のヒントはどこかにあるとも言える

    クヨクヨしても仕方ないので、ここからポジティブに対策を練ってみたいと思います^^

    ・「今で良かった」と思う

    →全治2週間と診断された訳ですが、これが大会1週間前とかのケガだったら「THE END」だった訳です。だから「不幸だけどラッキー」みたいに思う事にしました。事故に遭ったけど死ななかったみたいな^^

    ・「体を休めるいい機会」と思う

    →元から、8月中旬からはレースに向けて練習強度と頻度を落とすとしていたので、ある意味予定通りと思う事にしました。この期間に疲労を抜いて、いい状態で練習再開できるようにします

    ・「やれる事は思ったよりたくさんある」

    →まずは筋トレ。腹筋などの上半身トレーニングや体幹トレーニングは、足に関係なくできるので、毎日しっかりやっていきます。ストレッチも普段より長めに行う事で可動域を広げ、無理なく動かせる体を作っていきたいと思います

    ・「毎日の生活を丁寧に」

    →ケガの回復のためには、しっかり栄養を取って寝るだと思います。ビタミン、タンパク質などバランスの良い食事を作って、お風呂長めに入って血流を促進させ、良く寝る。お医者さんの見立てより早く良くなれればと思っています

    という事で、ケガしてしまった事は仕方ないので、ポジティブに過ごしていきます

    仮に、これが原因で北海道マラソンを完走できなかったとしても、この半年以上の練習はウソのない事実な訳です

    そう考えれば、完走出来れば「成功」ですが、完走できなかったとしても、それは「失敗」ではないと思えたりもします

    そういう意味では、どっちに転んでもすでに私は成功している?^^

    昔の私なら、こんなポジティブな発想には至らなかったと思うので、そういう意味では成長が感じられると思います

    やっぱり、生活が安定しているのが大きいのかな

    ケガをしても他者から何か嫌な事をされても、自炊、読書など生活の基盤は揺るがない

    そういう自分でコントロールできる柱があるから、外部要因で崩れる事が少ないのかもしれません

    ケガの続報は、またこの場で^^

    きっと良い方に変わっていくと思います

    貝の炊き込みご飯、じゃがいもとちくわのバター煮、豚肉スタミナ焼き、もずく酢、炭酸

    もずく以外は手作り

    美味しそうでしょ^^

  • ♯104 孤独や不安は、なくそうとせず飼いならす

    104回目の投稿になります

    本日2回目の投稿です

    「どうした?」と思われた方もいらっしゃるかとは思いますが、なんとなく気が向いたのでイレギュラーな形ではありますが、投稿します^^

    さて、今回考えてみたいのは「孤独と不安」についてです

    私は、基本一人で行動する事が好きです。でも、しばしば深い孤独感や不安感に襲われる事も正直言うとあります

    もう40を過ぎてこんな事を言うのが恥ずかしくもありますが、言い知れない淋しさを感じる事もあるんです^^

    孤独や不安について考えてみた事をいくつか書いてみます

    ・「孤独感や不安感が増すタイミング=夜」説

    これ、ありませんか?^^夜って、暗いからか脳が疲れているからか、考えれば考えるほどネガティブ方向へ思考が進む気がします

    そして、夜に考えた事って、一方向的で狭い視野の考えである事が私は多いです

    紙にメモった内容を翌朝読み返してみると「なにこの絶望的にネガティブな記録は」と思う事もしばしばあります^^

    日照時間の少ない北欧などにうつが多いのも似たような理由かもしれません

    夜は寝てしまう^^そして、明るい時間帯に考えるのがいいのかもしれません

    ・自分ではどうしようもない事に不安を感じてる説

    以前紹介した哲学者のエピクテトスは「事実は1つ、解釈は無限」と言いました

    LINEを例にしてみます。こちらから送信した後、相手から1日返信がないとします

    これにおける事実は「1日返信がない」です。それ以外なにもありません

    でも、これに解釈を乗っけてしまうと「私が送った内容で気分を害したかな」とか「嫌われたかな」とか「自分の優先度が低いのではないか」みたいに考えて、勝手に不安を増大させてしまいます

    実際は、ただただ忙しくて返す暇がなかっただけだったみたいな事はよくある事です

    不安が増大した結果、追いLINEをして余計に嫌われるみたいな悲しい事も起こったりしそうです^^

    LINEだったら、一度送ったら、あとは相手からの返信を待つしかない。それがいつになるかは相手次第

    こういう自分でコントロールできない事に不安を感じても仕方ないみたいなマインドがいいのかもしれないですね

    難しいですけどね^^特に自分が好きな相手とかだと、1つのリアクションに一喜一憂してしまう気持ちは私もありますし

    ・孤独や不安を感じるのは普通と思う

    孤独や不安みたいな感情って、思わない方がいいというか、思う事は良くない事みたいな刷り込みがある気がします

    思い切って考えを転換して「孤独や不安を感じる方が普通」と思ってみるのはどうでしょうか

    そうすれば、少なくとも「こんな風に思う自分はおかしいのではないか」というネガティブ思考からは逃れられるような気がします

    だって、この社会、生きづらいですよ^^

    常に誰かと、何かと比較され、競争を強いられる

    そして、他者の華やかな生活はSNSなどですぐ見れてしまう

    そして、SNSを見ている時ってたいてい一人

    この一事例でも、不安感や孤独感が増す条件がそろっている感じがします

    ・孤独や不安を飼いならす。他者で解消しようとしない

    今までの内容で、もし孤独や不安を自分なりに消化できそうなら、それがベストなのではないでしょうか

    ここからは、あくまで私の考えです。反対意見も多そうなので最初に断っておきます

    私は、孤独や不安の解消のために、安易に他者に会ったり付き合ったり体の関係になったりする事は、あまりよろしくないと思います

    人と会う時、「その人に会いたいから会いに行く」のと「一人が辛いから、その隙間を埋めたくて会いに行く」のとでは、少し違う感じがするんです

    私の(少ない^^)経験上、そういう感じで関係を構築しても、一人の時間になると倍くらいの孤独が襲ってきたりしましたね

    さて、えらそうに書いてみましたが、私自身、たまに襲ってくる孤独や不安に対してはまったく攻略できていません^^

    いつもの繰り返しになりますが、私はこのブログがあって本当に良かったと思います

    こういう気持ちを吐露できる場って、リアル世界ではなかなかないですし

    書くでも話すでもいいから、素直になれる誰かに向けて自分の想いを発信できるといいのかもしれません

    うまくまとめられていませんが、孤独と不安について考えてみた104回目でした^^

    ど深夜の投稿も、今回のテーマと合っていてよいのではないかと^^

    読んでいただきありがとうございました

  • ♯103 「泣ける○○」について考えてみた^^

    103回目の投稿になります

    私、先日本屋でぶらぶら物色していた時、ある本の帯にこう書かれてあるのを見つけました

    「絶対泣ける小説!!」

    うーーーん、と思ってしまいました^^

    という事で、今回は、この「泣ける」について書いてみたいと思います

    今回の内容の前提として、「筆者(私)が、非常にひねくれ者である」という事を踏まえてお読みください^^

    「泣ける」という触れ込みの本を読む時、映画を観る時、私はお金を払って「泣きに行く」という事でいいんでしょうか

    「さあ、泣くぞ!」みたいに意気込んで本読み始める感じ?^^

    また、それで泣けなかった場合、目的を達せられなかったという事でいいんでしょうか^^

    それとも、私が人間の心を持っていない、人としての感性が死んでる不適合者という事になります?^^

    あれ?なんか今回の内容、重箱の隅をつつくような嫌な感じになってきた気がする

    私の評価が下がりそう^^

    ここで言う「泣ける」とは、「感動する」とか「共感する」に近いのかなと私は思います

    そして、泣く事ってストレス解消というか、デトックスというか、感情を発散させる効果があるのも何となくわかります

    本を読んで、映画を観て泣くことを否定している訳ではありません

    私が違和感を持つのは「泣くのは結果論でしょ」って思うからです

    言い方を変えると、「泣ける」っていうのは、見る前から条件提示されている感じがするのです

    泣きポイントは人それぞれであるはずなのに、事前に「泣ける」と提示される事がひっかかるのかもしれません

    だから、映画を観た結果「泣けた」は自分的にOK

    映画を観る前に「泣ける」映画ですと言われるのはちょっと違和感

    こんな感じでしょうか

    なんとなく言語化できたような気がします

    さきほど、泣きポイントは人それぞれであると書きましたが、じゃあ、私の泣きポイントって何?

    ちょっと考えてみました

    最近、なんの本読んで泣いたっけ?

    一番最近だと「アルジャーノンに花束を」のラストは泣いた^^少しずつ書けなくなっていくチャーリーの日記は、日本語訳の秀逸さも相まって泣きました^^

    「容疑者Xの献身」、石神の完璧なロジックが花岡の感情によって崩れたラストも泣いたような^^

    「ゴールデンスランバー」の、手に「よくできました」のスタンプもらえるラストも泣いた気がする^^

    これらから共通するものって?

    私の泣きポイントは「喪失」みたいな感じかもしれません

    出版者様、本の帯に「泣ける小説!」「これは泣ける」的なやつ、やめてください^^

    泣けるかどうかの判断は、こっちに委ねてください^^

  • ♯102 本(小説)を読むと倫理観がバグり出す件について^^

    102回目の投稿になります

    本来、火曜日は投稿日ではないのですが、先週金曜日に1回飛ばしてしまった事が気になっていて、それを回復するための本日の投稿となっています^^

    そんなに律儀にやらなくてもいいかなとも思いますが、なんか気持ち悪くて^^

    という事で今回は、本を読む事について書いてみたいと思います

    私、中学生から大学生くらいまでは、けっこう本を読んでいました

    本の中に友人がいるかもと思ったのもこの時期です^^

    そして、就職して働きだすと、忙しさから一気に読まなくなりました

    今となっては、忙しかったからこそ本を読むべきだったなと思ったりもしています

    そして、適応障害による退職、転職を経て、1年ほど前からまたたくさん読むようになりました

    このブログで週1ペースで本を紹介している事もあって、年間100は無理でも80くらいのペースでは読んでいます

    さて、本題です

    タイトルに書きましたが、私、どうも最近倫理観がバグってきている気がします^^

    そしてこれは、小説を読んでいるせいだと結論付けました^^

    最近読んだ本でいうと、例えば朝井リョウの『正欲』。水の動きやしぶきを見る事が性癖の人が出てきます。誰にも理解されず日々を送る中で同じ性癖の人に出会い、交流する中で、ある事がきっかけで逮捕されてしまいます

    ニュースの見出しはこうです

    「校舎に侵入した男逮捕。『水を噴き出させる事に快感』」

    これ、実際にニュース見ていてこの報道を目にしたら

    「うわ、なんかヤバい奴やな」

    って思うと思うんです^^

    でも、「正欲」を読んだ後だとそうは思えなくなります

    この経験をしてしまうと、色んな事件のニュースを見ても

    「犯罪はダメだけど、誰にも理解されない苦しみがあったのかな」

    とか思ってしまいます

    角田光代の「紙の月」を読むと、不倫はエグいけど仕方ない事もあるかもと不倫を認めそうになったり

    松本清張の「砂の器」を読むと、主人公和賀英良の殺人よりも世の中の差別や偏見が問題だろと思いそうになったり

    中村文則の「銃」「遮光」を読むと、ラストは「うわーー、それはやめてーー^^」ってなるんですが、ヤバいものを持ち歩く快感を味わってみたくなったり^^

    これを実社会で発言したりすると「こいつ、不倫OK、殺人OK、危険物所持OKの最高にヤバい奴」という判定を受けて、下手すると社会的に抹殺される感じがしてちょっと怖くなります^^

    もちろんフィクションだとわかった上で読んでいるので、実際の行動に移したりはしないのですが

    文章が美しすぎたり、ストーリーが滑らかすぎたりすると、どんどん自分の中に入ってきて新しい概念が形成されそうになります^^

    大学のゼミみたいな場所あったらいいなと最近よく思います

    教授から指定された課題本1冊をゼミ生で読んで、ゼミの時間に教授含む数人で解釈をディベートするの、けっこう楽しかったなって

    そういうイメージで、同じ本を読んだ人と、本の感想を話し合えたら、すごく豊かな時間な感じがします

    たまに本屋さんや図書館で企画している「読書会」とかに行ってみればいいのかな

    本を読む事で倫理観がバグった人どうしで話すのって、楽しそう

    でも、私含めそういう人って、実社会では普通な格好して普通な発言して異端ぶりを隠して生きていると思うので、出会いづらいのかな^^

    なんて妄想を重ねながら、今は辻村深月の「善良と傲慢」読んでます。自分の中の善良さに隠された傲慢さがあぶり出されるようです

    ここで終わろうと思っていましたが、ごめんなさい、1つだけ

    今回、作家さんの名前がいくつか出てきて、「さん付け」しようかずっと迷いながら書きました

    最初、さん付けで書いていたのですが、松本清張のときに「松本清張さん」って書くの、すごく違和感あったんですよね^^

    だから、呼び捨てで統一してみました

    現代の作家にさんを付けるのって自然な感じ(朝井リョウさん、辻村深月さん)なのに、ひと昔前の作家(芥川龍之介さん、太宰治さん^^)には違和感あるのなんでなんでしょう

    最後、一気にくだらなくなってスミマセン

    「さん付け」問題、誰か解消してください^^

    明日も投稿しまーす

  • ♯101 100回目!!

    101回目の投稿になります

    前回の投稿で100回達成しました^^

    1本目の投稿が2月15日でした

    そこから週に3~4回の投稿を続け、今に至ります

    いやー、100回ですよ^^ちょっとだけ自分を褒めてもいいかもしれません

    これからも淡々と続けていくつもりですが、一度、これまでの取り組みを簡単に振り返ってみたいと思います

    客観的な気付きを箇条書きにしてみると

    ・投稿が苦だと思った事は一度もない

    ・ネタが枯渇した事も一度もない

    ・匿名で自分をさらけ出せる場である

    ・さらけ出せる一方、他者に読んでもらえるという特殊な場でもある

    こんな感じでしょうか

    コミュニケーション手段って色々あると思いますが、私は「書く」事が性に合っていると思います

    「書く」事って「話す」事よりも遅効性がありますよね

    「あの時、なんでこういう風に言ったんだろう」とか「あの時は、こう言うべきだったよな」みたいなひとり反省会をよく開催する私にとっては^^「書く」作業はそれを自分なりに結論付け、ボックスに収納するみたいな感覚があります

    じっくり思いを表現できる場であり、それを記録しておける場

    このブログを始めてから、私は、メンタルがより安定したと思っています

    アウトプットする事ってすごく大事だなって思うんです

    書くことでいったん自分の外に出す事ができるみたいな感覚で、そのぶん脳や心に余白ができて、溺れそうにならない感じです

    自分の考えが可視化され、形として残る事って、将来振り返った時に財産になる気がします

    例えば

    今時点で、「この考え方が絶対だ」と思っていても、数年経つとそうは思わないみたいな事があると思います

    また、逆パターンとしては「これは、1年限定で頑張ってみよう」と思っていた事なども、その環境に慣れると忘れてしまって消極的な現状維持になる事もあると思います

    そうした時に、「お前、1年限定でやってみるって言ってたけど、もう3年経ってるよ」みたいな事を記録が教えてくれる事も起こり得るわけです

    これ、私、転職の時に起こりました^^

    「辞めたい」「辞めるべきだ」と思っているのに、給与はそこそこいいし、新たな進路への不安もぬぐえない

    そうすると、「とりあえず今のままでいいか」みたいな感情も出てきます

    でも、日記を見ると「1年以内に転職含め行動する」と書いてあるんですね

    そこで、ハッと我に返り行動するみたいな事もありました

    人間って、以前の自分がどう考えていたかって、忘れがちな気がします

    特に、環境に染まるとそこから新たに動き出す事ってすごくパワーのいる事です

    記録を取っていれば、過去の自分と比較して、現在の思想や行動をアップデートしていけると思います

    2026年の7月現在、私はこう思っていたっていう記録は、1年、3年、5年経ったときすごく大事なんじゃないかと思います

    「自己犠牲で自己肯定感を上げない」とか「他人に期待しない」とか「真の優しさとは」みたいな重たいトピックもあれば

    「カラオケでどう立ち回る問題」とか「ラーメン屋さんで味変できない」とか「カフェでテイクアウトできない」とかしょうもないものもあります^^

    あ、ちなみに次回は「孤独や不安は、なくそうとせず飼いならす」です。重めの方です^^

    現在は、週に5000くらいのビュー数で、700人程に訪問していただいており、そのうち300人くらいは毎回読んでいただいています

    数はまったく意識していないのですが、本当にありがたいことです

    今後とも、末永くお付き合いよろしくお願いいたします

    いつもありがとうございます

  • ♯99 部首が謎すぎる^^誰か助けて~

    99回目の投稿になります

    私、今月の6日から漢字検定2級の勉強を始めました

    きっかけは、昨年から本をよく読むようになって、そこにたくさんの美しい言葉が並んでいる事にあらためて気づいたからです

    「驟雨(しゅうう)」…梶井基次郎「檸檬」

    「聳てる(そばだてる)」…芥川龍之介「舞踏会」

    「首肯いた(うなずいた)…夏目漱石「第一夜」

    などなど。こういう言葉を自然に読み書きできたり、日常で使えるようになったら人生が豊かになるかなと思ったりしています

    2級は大学くらいの時に取ったので、本来なら準1級に挑戦なのですが、いきなり準1級はハード過ぎと考え、リハビリも兼ねて再度2級を勉強しようと思いました

    いきなりフルマラソンだと〇んじゃうかもしれないから、まずは10キロのレースから的な感じでしょうか^^

    前置きが長くなりました

    勉強していて思ったことです

    私、部首、ダメかもしれません^^

    私の脳内の混乱を書いてみます

    あ、ここからアホな感じになります^^

    Q:「関」の部首を答えなさい

    私「はい、『もんがまえ』ですね。」

    私「(解答を見て)OK。もんがまえ。正解っと」

    Q:「聞」の部首を答えなさい

    私「これも、もんがまえですね」

    私「(解答を見て)正解は『耳』ね。え?ええっ?耳?もんがまえじゃないの?なぜに耳?^^」

    もうパニックです^^

    こうなると、全てが疑心暗鬼。間、問、閥、闘など、1個1個憶えないといけないの?なんか法則性ないの?みたいな

    あといくつか例を挙げます

    「爵」は?

    私「わからん。(解答を見て)へぇ、『つめがしら』っていうんだ。知らなかった。憶えよう。つめがしら、つめがしら」

    「妥」は?

    私「あ、これ、前にやった爵と同じだ。『つめがしら』ね^^」

    私「(解答を見て)正解は『おんな』。え?おんな?なぜ?^^ああ、もうダメだ^^」

    「軟」は?

    私「これは『くるまへん』?だよね?あれ?でも、つくりの部分、確か『あくび』だよな。どっち?ま、本番じゃないし、とりあえず『くるまへん』で」

    私「(正解を見て)あ、くるまへんね。OKOK」

    「次」は?

    私「これは『にすい』ね」

    私「(正解を見て)答えは『あくび』?なんで?助けてーー^^」

    この感じ、とっても苦手です。これ、なにか法則性あるんでしょうか?詳しい方、いらっしゃいませんか?^^

    あ、40過ぎのオジサンがテンション高くなってしまってスミマセン^^

    でも、漢字を勉強していると、「あ、自分って、なにか新しい知識を獲得する事が好きなんだな」って思ったりします

    今は、「なにか資格を取る=マネタイズ」みたいなイメージがありますね

    それでいくと、漢字検定は最も収益アップからは遠い資格だと思います

    でも、いいんです。なにかを知る事、それ自体を楽しんでいるので、ほっといてくれって感じです^^

    あと、読書もそうですが、勉強も、どれくらい集中できるか、捗るかというのが自分の疲れやメンタルを測る指標みたいになっています

    本を開いたり読み進める事に難しさを感じる、勉強した事が頭に入らない

    こういう時は、体が疲れていたり、他に悩み事があって脳の稼働がよろしくない事が多い感じがします

    今、毎日途切れる事なく楽しく勉強できているという事は、心身が良好なんだと思います

    ちょっと自分でも調べてみますけど、部首の謎、誰かご教示くださると嬉しいです^^

    博識のあなた、よろしくお願いします^^

  • ♯98 習慣化に必要なのは、意欲より仕組み化では?

    98回目の投稿になります

    さて、今回は「仕組み化」について考えてみたいと思います

    すごくマニアックというか、感覚的な話になりますので、読み進める際はご注意ください^^

    まあ、こちらにいつも来ていただいている読者様はもう慣れていると思いますが^^

    私は、周囲の人から、「毎日よく頑張るね」的な事を言われる事があります

    マラソン練習、資格や検定の勉強、筋トレなどなど

    周囲の人は私を「意欲がある人」「意識が高い人」「継続力のある人」と思っているかもしれません

    でも、違います^^私は、めんどくさがりな面もあるし、ラクしたいし、怠惰だし、気を抜くと部屋とかすぐ荒れ始めるし^^

    という事で、私はいつからか、自分の意志や意欲を過信せず「仕組み化」「自動化」する事で継続する術を身に付けていきました

    私が実践している事例をいくつか書いてみます

    私が、いかに意欲というものを信頼していないか、ラクしたいかがわかると思います^^

    ・毎月貯金する

    これはもう「先取り貯金」に尽きます

    「1か月節約頑張ろう!そして、残ったお金を貯金しよう」だと、意志、意欲の問題になってきます

    1か月間、事あるごとに「節約節約」とか「これは買うべきか買わざるべきか」みたいな判断をするのって疲れます

    なので、給料日に「5万円先に貯金。あとの20万は次の給料日までに好きに使ってOK」とする

    そのために、給与は第1口座と第2口座に分け、第2口座に5万円自動入金されるようにしています

    さらにその5万を、NISA枠を埋めるために、毎月1日にインデックスファンドを自動購入するように設定しています

    あ、ちなみに、第1口座の20万もだいたい使い切らないので残額は貯蓄になるんですけどね^^

    これが、私のイメージする「仕組み化」の最もイージーなものです

    ・毎日勉強する

    私がここ数年、資産形成やFP、漢検などの勉強が習慣づいたやり方はこれです

    「出勤前、玄関に、その日やるページのテキストとノートを開いて置いておく」です^^

    玄関ってのが、ちょっと狂気じみていますね^^

    でも、これだと、帰ってきた時に絶対目に入ります。そして、これは人それぞれかもしれませんが、私は、未完了のタスクがあるとやってしまいたくなります

    心理学だと「ツァイガルニク効果」とかって言いますね^^

    帰宅後、着替える前にそのまま30分~60分お勉強です

    部屋着に着替えると、やる気がなくなりそうで怖いので、仕事の制服のままお勉強です^^

    もう1つ勉強で「仕組み化」している事があって、それは、「わざとキリの悪いところで終わらせとく」です

    漢字検定の問題が見開き40問あったら、35問とかでやめて〇つけまでして終わります

    そして翌日、キリの悪い36問目から始めます

    これはすごく感覚的な話なんですが、そのページの1問目から始めるのと、途中の36問目から40問目までやって、その勢いのまま次のページに突入するのでは、後者の方が心理的負担が少ない気がするんです

    ・朝ラン

    寝る前にトイレの前にランニングの服と道具を置いときます

    翌朝起きたら、トイレ行った時にそれが目に入る

    ランニングの服に着替えると「まあ、服着たし、走りますか」みたいになります^^

    これが、朝起きて、衣装ケースからTシャツ出して靴下出して、キャップと補給ゼリー用意して、サングラスはどこだっけ?…とかやってると、たぶんその作業の途中でめんどくさくなります^^

    そして、走り出す訳ですが、最初の5分くらいは動き出すことに慣れていないので体はしんどいです

    でも、5分くらいたつと、慣れてきて楽になってきます

    車と同じで、発進する時が最もガソリンを使い、60キロとか定速で巡行し出すとガソリン消費は少なくなるみたいなイメージです

    勉強も同じで、始めてしまえば軌道に乗って、30分の予定だったけどもうちょいやろうみたいな感じかな

    適当に挙げてみましたが、こんな感じでできるだけ仕組み化して生きています^^

    自分の脳をハックするような感覚です

    自分の脳をハックする(騙す)事については今いろいろ考えていて…

    あ、また長くなってしまっているので、この話題はまたいつか^^

  • ♯95 全身麻酔をしてみて思った事

    95回目の投稿になります

    私、昨年交通事故(一応書いておくと、こちらの過失0の完全なもらい事故です^^)で右の顔面を強打し、頬とあごの骨を骨折、歯も右側をほとんど失う事となりました

    そして、歯については、インプラントを入れる事にしました

    あ、のっけから重い話でスミマセン^^

    無事、今日、インプラントの治療が終了し、制限なく飲み食いできるようになりました^^

    あ、別に不幸自慢をしたい訳でも、共感を求めたい訳でもありません

    書いてみたいのは、インプラントの手術をする時に行われた「全身麻酔」についての考察です

    今、思い返すと、けっこう新鮮な体験だったなと思ったので、記録がてら書いてみます

    インプラント治療は、インプラントに変える部分の歯を全て取り除きます。私で言えば、右半分をほぼ抜いて、そこに上下各2本のインプラント体を骨に埋め込む

    その時の手術で行われるのが全身麻酔です

    手術台に横になり、麻酔担当の医師から説明を受けます

    そして、麻酔が点滴を通して体内に入ってきます

    そこから、手術終了まで約2時間の記憶がまったくありません^^

    「あー、意識がぼんやりしてきたな」とか「視界がモザイクになっていく」みたいな感覚は皆無^^

    グラデーションで意識が薄れていくのではなく、パッと遮断された感覚です

    意識を取り戻したときは、看護師さんに名前を呼ばれ、目が覚めた感じでした

    そして、その時には、手術箇所の歯はきれいに抜かれ、インプラント体も埋め込まれていました

    10分ほどで意識もはっきりし、看護師さんと会話のやり取り、脈拍、瞳孔の動きなどを確認され、問題なしという事で手術は無事終了となりました

    ここまでが事実と状況の説明になります

    ここからが内省になります^^

    まず考えたのは、「その2時間は、私は生きているといえるのか?」という事です^^

    体は生きているのはわかります。呼吸もしているし心臓も動いてますから

    でも、意識はない。という事は、その2時間は存在していない事になるのではないか?

    周りから見たら明らかに生きているのはわかります。しかし、私の意識の問題としては、その2時間この世界に存在していたと言えるのかということです

    付いて来れていない方は、ここで離脱していただいてもかまいません^^スミマセン

    続けます

    先述したように、麻酔の時は、グラデーションではなく意識は急に途切れました

    その時の状況について思いを巡らせると、自分が死ぬとき、これでいいんじゃないかと思ったんです^^

    ここで言う「死ぬ」は、交通事故や自殺ではなく、年老いたり病気になったりして死ぬ事と定義します

    一般的には「病気になる→余命宣告→治療→衰え→死ぬ」みたいな流れだと思いますが

    余命宣告を受けて、身辺整理や死後の手続きなどを終えて、「もうやり切った」「あとは死を待つだけ」となった場合

    今回の全身麻酔のような形で死を迎えるのってアリだなと思いました

    私、今は、自分の人生を自分でコントロールしている実感がありまして

    それは、キャリアやお金、時間、世間体や社会常識などに対する自分なりの解(マインド)が再構築されたからですが

    他人の言動はコントロールできないからあれこれ考えすぎないとして、自分の事は全てコントロール下において、自分で意思決定したいと思うようになりました

    そうすると、今回の全身麻酔のような形で人生を終えるのって、コントロールできてるなって思うんです

    病気の最後の方って、体も満足に動かないんだろうし、痛いんだろうし、QOLはめちゃくちゃ低いんだろうなって思います^^

    だったら、ある程度の段階で「あ、僕、ここまででいいんで、点滴投入しちゃってください。今までありがとうございました」

    みたいな終え方、いいんじゃないかと思ったりしました

    日本では安楽死については認められていないし、生命尊重や自己決定権など専門家でも見解が分かれるような難しく多様な議論があるので、そこには言及しません

    もしかしたら、私が書いた方法での死に方も、広義では「自殺」に含まれるのかもしれません

    それに、いざ70歳とかになって死が現実的になってきたら「わしゃ、1分1秒でも長く生きたいんじゃ」とか言い出すかもしれないし^^

    こんなことを、札幌の歯医者から帰る道中、運転しながら考えたりしていました

    あ、「殺す」とか「死ぬ」とかって、SNS上でははじかれやすいから、あまり使わない方がいいって言われたばっかりだった^^

    まあ、いっか^^書きたい事を書こう^^

  • ♯94 死にたくなるのは暇だからじゃね?説について^^

    94回目の投稿になります

    さて、今回は「死にたくなるのは暇だから?^^」です

    いつにも増して、穏やかではないタイトルですが、この仮説をできるだけ軽やかに考察してみたいと思います

    現在、私はとても充実した日々を送っていると、自分で自信をもって言えます

    本を読み、勉強し、マラソンの練習をし、レシピサイトを見ながら自炊、たまにギターの練習などなど

    でも、かつての自分(5年くらい前まで?)は「死にたい」って定期的に思う派でした^^

    あ、ちなみに今はそんなに思いません(少しは思うの?^^)

    昔の私と今の私では何が違うのか?考えてみるに、それは

    「やりたい事が明確でそれに集中しているから。そして、それを今後もやり続けていきたいという未来志向があるから」

    といった所でしょうか

    少しカッコつけましたかね^^

    1つ例示してみます

    私は今、マラソン練習を頑張っています。先日も30キロのレースに出ました

    30キロは私のペースでは3時間程度かかります。27キロくらいでは息もあがって脚もかなり疲労を感じました

    でも、ゴールを目指して1歩1歩走っていました

    その時に、息をハアハアさせながらふと思ったんです

    「さすがに今、死にたいって思ってないな」ってことに^^

    死にたいって思う時って、他者からすごくイヤな事をされたとか、自分の許せない面が顕在化してきたとか、SNSで他者と相対的に比較をしてしまう事で落ち込んだりするときだなって思ってたんですけど

    その1つ前の段階として「暇だから」ってのがあるんじゃないか

    もしそうであるなら、時間も忘れるほど何かに熱中できるものがあればいいのではないか

    そして、それは、他者との比較で価値を感じる事ではなく、自分の成長にフォーカスできる事だとなおいいのではないかと思ったりしました

    さっき「未来志向」と書いたのは、例えばマラソンだと「来年のこの大会では○○分で走りたい」とか「いつかフルマラソンで4時間切りしたい」みたいな、他者を介在しない目標があるといいのではと思ったからです

    「1位になりたい」とか「半分より上に行きたい」とかだと他者が介在して相対的になっちゃうので、そうじゃないイメージです

    目標を自分のビフォーアフター的に設定する事で、将来の自分を見るのが楽しみになってきて、「生きてた方がおもろそうやな」って思えるんです^^

    少し脱線します

    私、大事な人と会ったり、旅行へ行ったりする時って、その時ももちろん楽しいけど

    その日までに色々計画を練ったり、準備したり、当日を妄想したりする事の方が楽しかったりします^^

    この感覚、当ブログへお越しの方、おわかりいただけませんかね^^

    例えば1か月後に人と会うなら、何話そうかなとか、お土産買おうかなとか、車キレイにしとこうかなみたいな事がマイルストーンみたいになって充実しだすので、あんまり死にたくなくなります^^

    あ、マイルストーンはちょっとカッコつけました^^ワードとして使ってみたかっただけです^^

    話を戻します

    一方、たぶん、あまりよろしくないパターンとしては、「暇だ→SNSをなんとなく見る→華やかな他者(面識あるない問わず)の生活が目に入る→自分と比較してしまう→へこむ」スパイラルに陥る事なのかな

    現代は、YouTubeもXも再生数、インプレッション数で収益が出るので、アップする内容もより過激に、より極端になってきている感じがします

    しかも、一度タップすると、それがアルゴリズム化されて関連動画がどんどん出てくるので、気を付けないと見える世界がどんどん狭くなって先鋭化されやすい

    すごく華やかな生活を送っていそうな人、キラキラした場所で着飾っている人も、発信していない時は地味な生活かもしれません

    死にたいって事は、自分の事を「価値ある存在」と思えていないから?

    価値がないと思うのは、価値ある生活を送っていないから?

    じゃあ、価値ある生活って何?お金?家?権力?

    みたいに考えていくと、「自分で価値設定をする」って事が大事な気がしてきます

    例えば私の月収は、手取りで25万程度です(もう少し欲しい^^)

    支出が月20万円なら幸せかもしれないし、月50万円なら不幸せかもしれない

    「私は、何をしている時が自分らしいと思えるのか」

    「私は誰といる時、無理がなく、自分が好きな自分でいられているのか」

    死にたくなった時には、自分なりの「生活」「好き」「楽しい」のベースラインを内省してみて、他者の目をいったん外してみるのがいいのかもしれません

    なんかうまくまとまっていない気がします

    スミマセン^^

  • ♯91 「殺してやるよ」って言ってみて気付いた事^^

    91回目の投稿になります

    さて、今回は「殺してやるよって言ってみて気付いた事」です。かなり不穏なタイトルですね^^

    以前、ヨルシカの「ポスト春」という曲を好きな歌紹介として書きました

    その中に「殺してやるよ」っていう歌詞があります

    ボーカルsuisさんが、優しくかわいい声で「はあ、殺してやるよ♪」って歌うんです^^

    それをドライブ中に車内で口ずさんでいたときに「あれっ?」と気付いた事があったんです

    「私、今までの人生、『殺してやる』って声に出して言ったことないかも^^」という事に

    まあ、物騒な言葉なので当たり前といえば当たり前なんですが^^

    ここで私が提唱してみたいのは、次の事です

    それは

    「普段言い慣れてない言葉は、いざ必要な時に出てこないのではないか」

    という事です

    例を挙げます

    私、ありがとうって言い慣れています。なにかしてもらったら無意識に「ありがとうございます」って言えます

    別に善人ぶる訳でもありませんが、そこは素直に自分のいいところかなあと思っています

    でも、「イヤです」とか「やめてください」とか「それはできません」っていう言葉は言い慣れてません

    だから、気持ち的には断りたい場面でもうまく言葉にできなくて「わかりました」ってなってしまう事があります

    「殺してやるよ」と言う必要はないかもしれませんが^^私にとっては、断る事や反論する事、イヤだと主張する事などは、ちゃんと事前に練習して回数を重ねておかないと、ここぞという場面で言えない気がするんです

    「ごめん、私はそこまではできないかな」

    「同じ部分もあるけど、私の考えとはだいぶ違うかな」

    「そういう言葉はちょっとイヤだな」

    これでもだいぶマイルドな気はしますが^^こういう事を実際に言っておくのって、自分にはすごく大切な事だと思いました^^

    今までの経験上、自分が他者との関係で苦しさを覚える時って、たいてい断れなくて相手ペースで物事が進んでいった時が多かったと思います

    そこに、自己犠牲的な観点も加わると、「自分が我慢さえすれば波風は立たない」となって、余計に力関係に差のある付き合いになってしまう

    だから、自他の境界線を明確にして、「ここまではできるけど、ここからは私はできない」という事をちゃんと主張する事が大切なのだと思いました

    そのためには、「イヤだ」「できない」という事を口に出す練習をする

    これってすごく大切な事なのではないかと、「ポスト春」の「殺してやるよ♪」のくだりを聴きながら思ったわけです^^

    さらに少し深く掘るなら、断っても付き合いが変化しない人こそが、本当に大事な人というか関係性なのではないかと思ったりもします

    なぜなら「それはイヤ」と言った相手(私)の心情も理解して尊重しようとしてくれる人だと思うからです

    「殺してやるよ」っていうワード1つから、こんな感じで思想を広げてしまいます^^

    特に一人でドライブしてる時なんかは考え放題です^^

    運転席横には付箋とペンが置いてあって、赤信号の時に要点だけ書き殴ってます^^

    北海道も蒸し暑い日々になってきました。読者様も元気に日々を過ごされますよう