カテゴリー: 内省

  • ♯115 親切心が良くない方向へ行った哀しい話^^

    いきなりの手書きの図はなんなんだと思われたと思います^^スミマセン^^

    あと、バスの絵の下手さには触れないでください。中学時代、美術が2で推薦を取れなかった男なんで^^

    今回は、親切心について、そして親切心が予期せぬ方向へ行った場合にどう考えるかについて書いてみたいと思います^^

    私は、バス運転手です

    先日、こんな事がありました

    夜9時台の最終バス。Aを出発して、B営業所前を通り、Cのバス停を通過して、Dが終点です。その後、点線部分を回送してバスはB営業所に戻り、業務を終えます

    いつも通り運行し、終点のDにバスを停めました。Dは「○○ダム前」で、家もなく真っ暗で、最終バスでは降りる人はいません

    忘れ物がないか車内を確認するため運転席を降り後ろへ歩き出すと、ありました

    忘れ物が

    いえ、忘れ物ではありません

    高校生の女の子が熟睡していました^^

    体に触れるのも良くないので、声を掛けます

    全く起きません^^

    私のスマホのアラーム音を最大にして顔の近くで流します

    起きました

    私「終点ですよー」

    学生「あ、スミマセン。やばい、ここどこですか?」

    私「終点の○○ダム前ですね」

    学生「スミマセン、寝過ごしちゃって…降ります」

    私「はい」

    と言って、2人で前のドアへ。定期券を確認し、学生さんはバスの外へ…

    行きませんよね^^私、さすがに声かけます

    私「降りたかったの、ここじゃないよね?」

    学生「はい。Cのバス停です」

    私「あー、さすがに真っ暗なダムに女の子一人で置いてけないんで、近くまで乗っていきますか?この後、このバスはB営業所まで回送で戻るので、Cの近くまで乗せますから」

    学生「あー、でも、申し訳ないです」

    私「家族の方が迎えに来られますか?」

    学生「母は夜勤でいないと思います」

    私「無理にとは言わないですけど、状況的に近くまで乗ってもらった方が、私も安心なので、そうしませんか?」

    学生「ありがとうございます。スミマセン、お願いします」

    という事で、Cの近くで学生さんは

    「本当にごめんなさい。今後、このような事がないように気を付けます。ありがとうございました」

    という非常に気持ちの良い礼儀正しい言葉を残してバスを降りていきました

    ここまでならいい話ですよね^^私も「人助けできたなあ」みたいな気持ちで帰路につきました

    翌日も仕事を終えて営業所に戻ると、所長が渋い顔をして「○○君、ちょっといい?」と私を呼びます

    「昨日、回送のバスに人乗せた?」と言われました

    そうなんです。回送のバスにお客さんを乗せてはいけないんです

    でも、あれ?なんで所長が知ってるの?誰にも言ってないはずなんだけど、と思っていると

    「さっき、ある学生のお母さんから電話きて『娘が寝過ごしたけど、とっても親切な運転手さんに近くまで送ってもらったみたいで。本当にお世話になりました。その運転手さんにくれぐれもよろしくお伝えください』と電話あったんだよね」

    とのこと^^

    所長からは「勝手な事をしないように」と指導を受け、私も「申し訳ありません。今後、このような事がないようにします」と返し、その場は終わりました

    さて、ここから考察です^^

    私は親切心で学生さんを乗せました。学生さんはその事をお母さんに報告したのでしょう。そして、お母さんは感謝を伝えるために営業所へ電話をした

    誰も悪くないのに、良くない方向へ行く事ってあるんだなあと思いました^^

    あ、でも実際は、悪いのは私です

    回送に客を乗せてはいけないというルールを破ったのですから

    仮に回送中に事故があったりすると、大きな問題になります

    でも。でもですよ。その状況で真っ暗なダム前に、「ルールだから」と女の子を1人置いていくのは、人としてアリですか?^^

    世の中って、こういう綺麗事で片付かない現実的な問題ってありますよね

    自分の責任を回避するなら、営業所に電話をかけて指示を仰ぐのがいいんでしょうね

    でも、その電話で「ルールなんで、降ろしてください」って言われたら、私は降ろすのか?

    まだ結論が出ていません^^

    機械のように無感情で仕事ができれば、それに越した事はないんですけどね^^

    読者様が私の立場に置かれたら、どうしますか?

  • ♯113 読書記録「嫌われる勇気」①

    読書記録「嫌われる勇気」

    著者:岸見一郎・古賀史健

    出版社:ダイヤモンド社

    初版:2013年12月

    前回に引き続きアドラーです

    10年以上振りくらいの再読です

    前回読んだときは30歳くらいで、絶賛仕事人間だった時期なのもあったのか、読み終えた時、少し批判的というか「そうか?」みたいな感覚だった事をぼんやり憶えています

    ですが、です^^

    今回読むと「アドラーさん、その通りですね^^」って感じです^^

    最近は少しずつ心も整ってきたからか、半分くらいは「自分もできてるな」、半分くらいは「なるほど、そういう考え方でやってみよう」みたいな感じでした

    今回は、この「なるほど、そういう考え方でやってみよう」の部分を中心に書いてみます

    ・問題は「何があったか」ではなく「どう解釈したか」

    アドラーは、自分の性格を「経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって決定される」と考えました

    だから、過去に支配される生き方を否定し、「人は変われる」を前提に生きよとしています

    これって、自分的にはすごい事だと思います

    だって、経験に意味を与えるのは「自分」ですよね

    という事は、今の自分が変われば、自分の性格のみならず生き方まで変容させていく事ができるという事になるからです

    これは、自分の人生を他者に委ねるのではなく、自分でハンドルを握る事になりますよね

    私が目指す生き方にも合致しています

    ただ、この生き方を進めようとすると、今までの考え方や行動様式を変えていく必要があります

    現状維持バイアスが効きやすい人間にとっては、価値観の転換が自分の知らない不安な世界へ踏み出す事にもなります

    また、自分の現状を「過去」に理由づける事もできないため、考え方によっては決断する事への心理的な負荷が高くなるとも言えます

    そこで大切になってくるのが、アドラー心理学の肝になる、この言葉になります

    ・他者と比較しない勇気

    はい。アドラーは勇気を持とうと読者に語りかけます

    誰とも競争する事なく、ただ前を向いて歩いて行くという事

    今の自分よりも前に進もうとする意志にこそ価値がある

    他者と比較する事の本当の恐ろしさは、他者全般、ひいては世界を「敵」だとみなすようになるとアドラーは言います

    敗者にならずとも、勝ち続けていようとも、競争の中に身を置けば気持ちの休まる暇がない

    それが心の疲弊につながり、自信のなさや優越コンプレックスによる他者への攻撃性になって顕れると

    私は、今、マラソンを趣味としています

    これもまさに「解釈の仕方」「意味づけ」だと思うのです

    「1位を取りたい」「あいつには勝ちたい」「平均より前の順位で」などと意味づけすれば、それは他者との比較になります

    でも、「完走したい」「4時間30分以内で走りたい」と意味づけすれば、それは、「自分の今、ここ」に集中することになります

    そして、これは肌感ですが、後者を目標とした方が嬉しいです

    「1位を取りたい」って、他者というこちらの意志ではどうしようもない外部要因に縛られますよね

    参加人数、参加者のレベルなど。もし参加者にオリンピック選手がいれば1位を取る可能性は限りなく0ですし、「オリンピック選手がいたから仕方ない」と理由づけちゃう事もできます

    それよりは、1歩1歩足を進めてゴールに近づいている自分や、目標時間でゴールできるようにペースを決めて練習している自分の方が価値があるなって思います

    まあ、この辺の感覚は40を過ぎたっていう年齢的なものもあるかもしれませんが^^

    若い時なら、他者に勝ちたいみたいな感覚はもっとあったかもしれません

    私なりの解釈ですが、アドラーが大事だという「勇気」とは、自分の価値観を自分で確定させ、それを他者の目を考えずに貫くことなのではないかと思います

    今で1500字^^たぶん来週の読書記録もアドラーです^^

  • #112 アドラー読んだら課題が分離した^^

    112回目の投稿になります

    アドラー心理学に関する本を改めて3冊ほど読みました

    一番キャッチーな本は、こちら『嫌われる勇気』かなと思います

    本の全貌は明後日金曜日の読書記録で紹介しようと思っていますが

    今回は、アドラー心理学の最もコアな部分「課題の分離」について書いてみたいと思います

    まず、アドラーは他者からの承認欲求を否定します

    むしろ、承認を求めてはいけないとまで言います

    承認欲求の多くは、幼少期からの賞罰教育にあるとしています

    適切な行動を取ったら褒めてもらえる。不適切な行動を取ったら罰せられる。この先にあるのは、「他者の期待を満たすために生きる」こと、つまり「他者の人生を生きる」ことだと

    その結果、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、「自分が自分でいること」を抑えて生きてしまう

    このようなタイプは真面目な人に多い。親や教師の期待に応えようと苦しんだり、恋人や配偶者に過度な自己犠牲をもって尽くし過ぎて心を病んだりと自分を見失っている場合が多いと

    ここまで、過去の自分をアドラーにすべて言い当てられているようで、もう苦笑いしかできません^^

    アドラーさん、あんたすごいよ^^私の青年期の生きづらさそのものです

    大学生くらいの時期にアドラー心理学に出会えていたら、なんか色々変わったのかなんて思ったり

    あ、でも、今幸せだから、あの時の苦悩含めて良しとするかと思ったり^^

    本に戻ります

    このような承認欲求からの脱却として一石を投じるのが「課題の分離」です

    すごく簡単に言うと、ある課題があったとき、「これは、誰の課題なのか?」

    「自分の課題ではない場合、それには踏み込まない」

    という観点で考えることをアドラーは説いています

    • 子どもが勉強しない

    子どもが勉強するかしないかは子どもの課題

    親が「勉強しなさい」と命じるのは他者の課題に対して踏み込む行為である

    「勉強しなさい」と言うという事は、親が子どもの勉強を自分の課題としている証拠

    世間体や自分の子育ての成功や支配欲などを満たしたいという自己中心的な承認欲求からの行為である

    • 100万円必要だと恋人に言われた

    100万円を用意するのは恋人の課題

    あなたが金を貸したり、代わりに働いたりするのは他者の課題に対して踏み込む行為

    100万円用意したいという欲求は、他者の課題に踏み込んでまでも自分の承認欲求を満たしたいという、ある意味で自己中心的な行為である

    なかなか手厳しいですが、「相手のための行為である」という考えを、アドラーは、「その本質は、承認欲求を満たすための自己中心的な行為である」としています

    これはおもしろいというか、ハッと何かを目覚めさせる角度の視点だなと思いました

    ここで、少し補足があります

    アドラーは、自分の課題と他者の課題を分離する事を説いていますが、それはイコール放任主義というわけではありません

    勉強にしてもお金にしても相手に「それはあなたの課題だよ」と伝える事が大切としています

    そして、相手がどのような決心を下すのか。ライフスタイルを変えるのか、または変えないのか

    これは相手の課題であり、こちらはそこに介入すべきではないとしています

    アドラーは、課題の分離を「ここから先は自分の課題ではないという境界線を知る事」としています

    他者の課題に介入する事、他者の課題を抱え込んでしまう事は、自らの人生を重く苦しいものにしてしまうと言います

    話の前半に戻ります

    このような悩みを抱えるのは、真面目な人に多いとありました

    そうであるならば、他者は真面目な人に対して「他者の課題を自分の課題であるかのように錯覚させ、押しつけてくる」恐れがあるということです

    数年前に「いただき女子」という事件がありましたね

    その女性は、SNS上で知り合った男性に、親の手術や借金などの話をして多額のお金をゲットしていたというものです

    アドラー的には、手術費用や借金は女性の課題であり、男性の課題ではない

    でも、女性は男性に対し、お金を出せば恋人関係になれるかのようなやり取りをし、男性から自発的にお金を出させるようなマニュアルまで作っていたとのこと^^

    巧みな心理テクニックですが、これは「女性の課題に男性を完全に取り込んだ」と言えるでしょう

    この「課題の分離」、癖づいてくると「これはだれの課題か」を考える事ができるようになるし、相手の課題に入り込まない方が相手と対等な関係性を構築できるという事に気付けたりします

    次回ももう少しアドラー心理学、書いてみたいと思います

  • ♯111 サングラスしたらからまれなくなった件^^

    111回目の投稿になります

    昔から視力は良くて、これまで目で困った事はなかったのですが、最近仕事を終えると目が疲れてぼやけて見える感じが出るようになってきました

    たぶん、加齢と仕事が原因です^^

    特に夜にバスの運転をすると、車内は明るく外は暗い。フロントガラスに車内の光が反射して見づらい。その状態で目を凝らして見るので疲れるんだと思います

    そこで、目の保護という事で、プライベート、仕事を問わず日中はサングラスを付ける事にしました

    それから3か月ほど経った時、ふとある事に気が付きました。それは

    「仕事中、変な客にからまれなくなった」という事です^^

    私はバス運転手ですが、接客業をしていると、様々なお客さんがいますよね

    ここに来ていただいている読者様も、接客に関わる仕事をされている方が多いのではと推察します

    肌感ですが、こちらに「ありがとう」って笑顔で言ってくれる素敵なお客様が3割

    無言で支払いを済ませる特に可もなく不可もなくといった感じのお客さん6割

    「この人にこの後災いが降り注ぎますように」と思っちゃう嫌な客1割といったところでしょうか^^

    最終バスに乗ってくる酔っ払いオジサン2人が大声で話している。こちらが車内マイクで「他のお客さんもいますので、もう少しお静かにお願いします」と言うと「うるせーな!口ごたえすんじゃねーよ!」みたいな^^

    事故で渋滞が起き、15分ほど遅れて運行中、乗ってきたオジサンが大きな声で「おい、何分遅れてるんだ!JRに乗り遅れたら弁償しろよ!」みたいな^^

    赤信号で止まっていると「おい、さっきのバス停で降りれなかったから、今ここで降ろせ」。こちらが「バス停以外では乗降できませんので、次のバス停で降りてください」と言うと「前は降ろしてくれたぞ。お前使えねーな」って言ってくるオジサンみたいな^^

    あれ?なんか思い付いた例が全部オジサンだったんだけど^^

    オジサンが偉そうだったりクレーム付けがちだったりするのは、私なりの考察があるんですが、それはまた今度書いてみます^^

    話を戻します

    サングラスを付けるようになってから、そのようなめんどくさいやり取りがほぼなくなったんですよね

    接客の感じを変えた訳でもないんです

    変わったと言えば、サングラスをかけた事と、マラソン練習で髪がうざったいのでツーブロックにしたくらいです^^

    どっちにしても以前より見た目はややいかつくなりました^^

    私たちが生きるこの社会は、見た目がいかつくなると絡まれないという事でいいですか?^^

    若い女性が、黒髪から金髪にしただけで痴漢に遭いにくくなったみたいな話も聞いたりしますし

    もしそうであるなら、良くも悪くも自分に関わってくる人を、外見をどうするかで変える事ができそうですよね

    例えば男性は、どんな女性と付き合いたいかで、戦略としてオラオラ系になったり中性的な感じになったりキャラ付けする事を考えるかもしれません

    女性も、清楚系やギャル系、メイクの濃さなどを相手に合わせたりするのかもしれません

    例えば私は、女性を好きになるとき、その人の内面(考え方や好きな事、嫌いな事など)を好きになる事が多いです

    一方私は、タトゥーを入れている女性は好きじゃないです。恐怖を感じます^^

    そうすると、ある女性が私にとってめちゃくちゃ内面が魅力的でドンピシャな人だったとしても、タトゥーが入っていれば、私は仲良くなろうとしない訳です

    タトゥーが怖いからです^^

    話がだいぶそれましたが、バスの運転手ってなんか下に見られがちというか、強い態度に出られやすい気がするんですよね

    「職業に貴賎なし」だと思うんですがね^^

    だから、サングラスがそのパワーバランスを均衡化してクレームを抑制するのであれば素晴らしい事です^^

    見た目が与える影響って、とても大きいのではないかと、サングラスを通して思ったりしたのでした^^

  • ♯108 私、相対評価からおりて生きていきます^^

    108回目の投稿になります

    煩悩の数と同じ回数の投稿回で書いてみるのは「相対評価」についてです^^

    私がこれまで生きてきた中で苦しかったものの1つが、この相対評価ではないかと思っています

    先に断っておくと、私は相対評価が全部ダメと言いたい訳ではありません

    他者との比較による競争が自己の成長を促す事はあるし、幼稚園の徒競争で手をつないでゴールして着順を付けないのも賛成しかねます^^

    ただ、この社会、誰かに勝つとか平均より上に行きたいとか1位を取りたいとかそういう要素が多すぎるのではないかと感じています

    んで、この流れに巻き込まれると抜け出せなくなる感覚があります

    少し自分の話をすると、私の親は、定期テストで学年3位を外さないくらいの学力の私に「一番いい高校に行けるわね」と言いました

    合格したら、「次はいい大学を目指しなさい」と言いました

    いい大学かと言われるとどうかなとも思いますが、国立の教育大学に現役で入った事に親は満足そうでした

    その後も、こんな感じの話が続きました

    「先生を目指すのはいい事だ。社会的な信頼が高い職業だし、公務員で安定しているし」

    「結婚はしないの?家庭を持ってこそ一人前の人間よ」

    たぶん、ウチの親は「我が子は平均よりいい素晴らしい能力を持った誇れる子なのよ病」に罹患しています^^

    そして、私の存在自体を愛するという事よりも「世間体が良く、学歴や職歴などのステータスを持った私」を愛していたと思います

    あ、なんかちょっと重くなりましたね^^スミマセン^^

    今はもう、親の言う事は全く無視なのでいいんですが、世の中、他者より優れた自分でいたいという風潮が強すぎる気がします

    「勝ち組」「負け組」なんていう言葉もありますね

    このあたり、読者様はどのように感じますでしょうか?

    世の中は、今は資本主義社会という事もあって、どれだけたくさんのお金を使わせるかという競争を特に強いてきます

    新興宗教のように自信のなさや淋しさにつけ込んで、時には優しく、時には不安や恐怖をあおって金を使わせたり

    「美=細い」のような風潮で過度に美容やダイエットにお金を使わせたり

    中には、無理やり順位付けをするイベントを自ら作り上げて、客を取り込もうとする商法などもありますね

    若い方は知らないかもしれませんが、かつては「AKB48総選挙」なるものがあって、推しを1位にするためにCDをファンに買わせて投票して順位を競わせるという非常に趣味の悪いイベントがあったりしました^^

    人によっては何千枚と買ったりとか…

    CD1枚が1000円だとしても1000枚で100万円ですよ…

    そのアイドルの「あなたのおかげで1位になれました」のひと言が何より嬉しいし価値ある言葉だと思うのであれば、誰もその行為を否定はできないと思います

    でも、「総選挙」というイベントそのものが競争をあおるための仕組まれた集金システムになっているという事実もある訳で…

    100万円減った預金残高とうず高く積まれた1000枚のCD

    それが虚しく感じられる時が来るのかはわかりませんが、冷静なもう一人の自分みたいな意識も必要なんじゃないかなと思ったりします

    たぶん、この文化は形を変えて色々な所に存在すると思います

    ミシュラン三ツ星レストラン、営業売上ナンバー1、生配信同時接続世界1位、スパチャ総額何百万円などなど

    その世界の中にいる人は夢中でお金や時間を使うのに対し、外の世界にいる人から見るとその価値観に「?」が浮かぶ事も多そうです

    という事で、現在私は、こういう相対評価や競争の世界からおりて、外から見る感じになっています^^

    外というか、イメージ的には上空から鳥の視点で俯瞰して眺めている感じです。わかります?^^

    私は「それは本当に自分がやりたい事か」を最重要判断軸にしています

    「世間が良いとしているもの」「良いと定義しようと企んでいるもの」と「自分はこれが良いのでは」と思っている事を客観的に天秤にかけて、時には「これは私の感覚が正しいでしょ」と自信を持って思えるマインドが必要なのかなって思ってます

    そうすると、結局のところ、話は自己肯定感とか自分に自信を持つとかいうところに返ってきます^^

    私の内省は、結局「自分軸を持って自分の人生は自分でハンドルを握る」事に回帰する感じがしています^^

    全ての選択にこの考えを適用できるかは、実際は難しい面もあるのかもしれないですけどね^^

    私が変わったきっかけってなんだったんでしょう?

    と問われると、それは明確に2つあって、それは「適応障害で死にかけた」事と「交通事故で死にかけた」事です^^

    「あ、これ、死ぬかも」くらいの強烈な体験があれば、「世の中の評価なんてどうでもいい」「周りを蹴落としたり不幸にしたりして得られるナンバー1なんて逆にいらんわ」って思えるかもしれません

    「この人は、この本は、この歌は、私が好きだから好き」

    最後の最後で語彙力が崩壊しました^^うまく言語化できませんが、私は今、この感覚で生きています

    そして、この生き方はとっても生きやすいです^^

    あなたも、数値や順位付けのしがらみから解放されてみませんか?^^

    夢中で書いていたら2000字…いつも長くてスミマセン

  • ♯107 ケガしましたー^^

    (あぶなっ!)

    と思った時には、右の足首は道路脇の側溝のふちでぐにゃりと曲がっていた

    気温28度のよく晴れた午後

    イヤホンを両耳に突っ込んだ自転車の高校生は、こちらを一瞥しただけで、しゃがみこむ私に声をかける事もなく立ち去った

    私は、月末に行われるフルマラソンの大会に向け、ジョギングをしていた

    普段は気を付けているのだ。小道から車が出てこないか。歩行者はいないか

    今日の高校生は、その子の家の生け垣の間から急に出てきた

    ノールックで出てきた高校生も悪いが、それを予見できなかった私もたぶん悪い

    ケガをした

    今年の目標を「8月末のフルマラソン完走」に定め、着実にステップを刻んできた

    そして、本番3週間前に、これ

    整形外科に行くと「右足首の捻挫。骨には異常なし。2週間程度の安静が必要」とのこと

    1月にウォーキングから始め、1キロ走れるようになり、3キロ走れるようになり、10キロ、ハーフ、30キロと大会での完走を積み重ね、順調に来ていた今になって、これ

    「禍福は糾える縄の如し」

    ああ、漢検の問題に出てきたな

    「良い事と悪い事は表裏一体であり、かわるがわる来るものだ」

    40を過ぎると、人生の節目は自分で作らないと何も起こらない事に気付き始める

    若い頃は、入学、受験、卒業、成人式など、その時期が来れば節目は外からやってきた

    大人になると、節目は自分で作らないとやってこない

    自分で用意する節目

    その1つがマラソン

    初めて挑戦するフルマラソンで、直前に2週間休む事が何を意味するのかはわからない

    でも、人生もそんなものかもしれないと思ったりもする

    どんな外部要因があったとしても、どう行動するかは結局自分

    今までの数値、練習過程が私の背中を押す

    自分を前向きにさせてくれたのがマラソン

    これで完走出来たら、喜びもより大きくなるだろう

    今まで頑張ってきた自分に期待してみよう

    ―――――――――――――――

    107回目の投稿になります^^

    短編っぽく、ケガした事について書いてみました^^

    端的に言ってショックですけどね

    まさに「禍福は糾える縄の如し」

    順調に行っている時にこそ落とし穴がある

    でも、言い換えれば、うまくいかない事があっても、浮上のヒントはどこかにあるとも言える

    クヨクヨしても仕方ないので、ここからポジティブに対策を練ってみたいと思います^^

    ・「今で良かった」と思う

    →全治2週間と診断された訳ですが、これが大会1週間前とかのケガだったら「THE END」だった訳です。だから「不幸だけどラッキー」みたいに思う事にしました。事故に遭ったけど死ななかったみたいな^^

    ・「体を休めるいい機会」と思う

    →元から、8月中旬からはレースに向けて練習強度と頻度を落とすとしていたので、ある意味予定通りと思う事にしました。この期間に疲労を抜いて、いい状態で練習再開できるようにします

    ・「やれる事は思ったよりたくさんある」

    →まずは筋トレ。腹筋などの上半身トレーニングや体幹トレーニングは、足に関係なくできるので、毎日しっかりやっていきます。ストレッチも普段より長めに行う事で可動域を広げ、無理なく動かせる体を作っていきたいと思います

    ・「毎日の生活を丁寧に」

    →ケガの回復のためには、しっかり栄養を取って寝るだと思います。ビタミン、タンパク質などバランスの良い食事を作って、お風呂長めに入って血流を促進させ、良く寝る。お医者さんの見立てより早く良くなれればと思っています

    という事で、ケガしてしまった事は仕方ないので、ポジティブに過ごしていきます

    仮に、これが原因で北海道マラソンを完走できなかったとしても、この半年以上の練習はウソのない事実な訳です

    そう考えれば、完走出来れば「成功」ですが、完走できなかったとしても、それは「失敗」ではないと思えたりもします

    そういう意味では、どっちに転んでもすでに私は成功している?^^

    昔の私なら、こんなポジティブな発想には至らなかったと思うので、そういう意味では成長が感じられると思います

    やっぱり、生活が安定しているのが大きいのかな

    ケガをしても他者から何か嫌な事をされても、自炊、読書など生活の基盤は揺るがない

    そういう自分でコントロールできる柱があるから、外部要因で崩れる事が少ないのかもしれません

    ケガの続報は、またこの場で^^

    きっと良い方に変わっていくと思います

    貝の炊き込みご飯、じゃがいもとちくわのバター煮、豚肉スタミナ焼き、もずく酢、炭酸

    もずく以外は手作り

    美味しそうでしょ^^

  • ♯104 孤独や不安は、なくそうとせず飼いならす

    104回目の投稿になります

    本日2回目の投稿です

    「どうした?」と思われた方もいらっしゃるかとは思いますが、なんとなく気が向いたのでイレギュラーな形ではありますが、投稿します^^

    さて、今回考えてみたいのは「孤独と不安」についてです

    私は、基本一人で行動する事が好きです。でも、しばしば深い孤独感や不安感に襲われる事も正直言うとあります

    もう40を過ぎてこんな事を言うのが恥ずかしくもありますが、言い知れない淋しさを感じる事もあるんです^^

    孤独や不安について考えてみた事をいくつか書いてみます

    ・「孤独感や不安感が増すタイミング=夜」説

    これ、ありませんか?^^夜って、暗いからか脳が疲れているからか、考えれば考えるほどネガティブ方向へ思考が進む気がします

    そして、夜に考えた事って、一方向的で狭い視野の考えである事が私は多いです

    紙にメモった内容を翌朝読み返してみると「なにこの絶望的にネガティブな記録は」と思う事もしばしばあります^^

    日照時間の少ない北欧などにうつが多いのも似たような理由かもしれません

    夜は寝てしまう^^そして、明るい時間帯に考えるのがいいのかもしれません

    ・自分ではどうしようもない事に不安を感じてる説

    以前紹介した哲学者のエピクテトスは「事実は1つ、解釈は無限」と言いました

    LINEを例にしてみます。こちらから送信した後、相手から1日返信がないとします

    これにおける事実は「1日返信がない」です。それ以外なにもありません

    でも、これに解釈を乗っけてしまうと「私が送った内容で気分を害したかな」とか「嫌われたかな」とか「自分の優先度が低いのではないか」みたいに考えて、勝手に不安を増大させてしまいます

    実際は、ただただ忙しくて返す暇がなかっただけだったみたいな事はよくある事です

    不安が増大した結果、追いLINEをして余計に嫌われるみたいな悲しい事も起こったりしそうです^^

    LINEだったら、一度送ったら、あとは相手からの返信を待つしかない。それがいつになるかは相手次第

    こういう自分でコントロールできない事に不安を感じても仕方ないみたいなマインドがいいのかもしれないですね

    難しいですけどね^^特に自分が好きな相手とかだと、1つのリアクションに一喜一憂してしまう気持ちは私もありますし

    ・孤独や不安を感じるのは普通と思う

    孤独や不安みたいな感情って、思わない方がいいというか、思う事は良くない事みたいな刷り込みがある気がします

    思い切って考えを転換して「孤独や不安を感じる方が普通」と思ってみるのはどうでしょうか

    そうすれば、少なくとも「こんな風に思う自分はおかしいのではないか」というネガティブ思考からは逃れられるような気がします

    だって、この社会、生きづらいですよ^^

    常に誰かと、何かと比較され、競争を強いられる

    そして、他者の華やかな生活はSNSなどですぐ見れてしまう

    そして、SNSを見ている時ってたいてい一人

    この一事例でも、不安感や孤独感が増す条件がそろっている感じがします

    ・孤独や不安を飼いならす。他者で解消しようとしない

    今までの内容で、もし孤独や不安を自分なりに消化できそうなら、それがベストなのではないでしょうか

    ここからは、あくまで私の考えです。反対意見も多そうなので最初に断っておきます

    私は、孤独や不安の解消のために、安易に他者に会ったり付き合ったり体の関係になったりする事は、あまりよろしくないと思います

    人と会う時、「その人に会いたいから会いに行く」のと「一人が辛いから、その隙間を埋めたくて会いに行く」のとでは、少し違う感じがするんです

    私の(少ない^^)経験上、そういう感じで関係を構築しても、一人の時間になると倍くらいの孤独が襲ってきたりしましたね

    さて、えらそうに書いてみましたが、私自身、たまに襲ってくる孤独や不安に対してはまったく攻略できていません^^

    いつもの繰り返しになりますが、私はこのブログがあって本当に良かったと思います

    こういう気持ちを吐露できる場って、リアル世界ではなかなかないですし

    書くでも話すでもいいから、素直になれる誰かに向けて自分の想いを発信できるといいのかもしれません

    うまくまとめられていませんが、孤独と不安について考えてみた104回目でした^^

    ど深夜の投稿も、今回のテーマと合っていてよいのではないかと^^

    読んでいただきありがとうございました

  • ♯103 「泣ける○○」について考えてみた^^

    103回目の投稿になります

    私、先日本屋でぶらぶら物色していた時、ある本の帯にこう書かれてあるのを見つけました

    「絶対泣ける小説!!」

    うーーーん、と思ってしまいました^^

    という事で、今回は、この「泣ける」について書いてみたいと思います

    今回の内容の前提として、「筆者(私)が、非常にひねくれ者である」という事を踏まえてお読みください^^

    「泣ける」という触れ込みの本を読む時、映画を観る時、私はお金を払って「泣きに行く」という事でいいんでしょうか

    「さあ、泣くぞ!」みたいに意気込んで本読み始める感じ?^^

    また、それで泣けなかった場合、目的を達せられなかったという事でいいんでしょうか^^

    それとも、私が人間の心を持っていない、人としての感性が死んでる不適合者という事になります?^^

    あれ?なんか今回の内容、重箱の隅をつつくような嫌な感じになってきた気がする

    私の評価が下がりそう^^

    ここで言う「泣ける」とは、「感動する」とか「共感する」に近いのかなと私は思います

    そして、泣く事ってストレス解消というか、デトックスというか、感情を発散させる効果があるのも何となくわかります

    本を読んで、映画を観て泣くことを否定している訳ではありません

    私が違和感を持つのは「泣くのは結果論でしょ」って思うからです

    言い方を変えると、「泣ける」っていうのは、見る前から条件提示されている感じがするのです

    泣きポイントは人それぞれであるはずなのに、事前に「泣ける」と提示される事がひっかかるのかもしれません

    だから、映画を観た結果「泣けた」は自分的にOK

    映画を観る前に「泣ける」映画ですと言われるのはちょっと違和感

    こんな感じでしょうか

    なんとなく言語化できたような気がします

    さきほど、泣きポイントは人それぞれであると書きましたが、じゃあ、私の泣きポイントって何?

    ちょっと考えてみました

    最近、なんの本読んで泣いたっけ?

    一番最近だと「アルジャーノンに花束を」のラストは泣いた^^少しずつ書けなくなっていくチャーリーの日記は、日本語訳の秀逸さも相まって泣きました^^

    「容疑者Xの献身」、石神の完璧なロジックが花岡の感情によって崩れたラストも泣いたような^^

    「ゴールデンスランバー」の、手に「よくできました」のスタンプもらえるラストも泣いた気がする^^

    これらから共通するものって?

    私の泣きポイントは「喪失」みたいな感じかもしれません

    出版者様、本の帯に「泣ける小説!」「これは泣ける」的なやつ、やめてください^^

    泣けるかどうかの判断は、こっちに委ねてください^^

  • ♯102 本(小説)を読むと倫理観がバグり出す件について^^

    102回目の投稿になります

    本来、火曜日は投稿日ではないのですが、先週金曜日に1回飛ばしてしまった事が気になっていて、それを回復するための本日の投稿となっています^^

    そんなに律儀にやらなくてもいいかなとも思いますが、なんか気持ち悪くて^^

    という事で今回は、本を読む事について書いてみたいと思います

    私、中学生から大学生くらいまでは、けっこう本を読んでいました

    本の中に友人がいるかもと思ったのもこの時期です^^

    そして、就職して働きだすと、忙しさから一気に読まなくなりました

    今となっては、忙しかったからこそ本を読むべきだったなと思ったりもしています

    そして、適応障害による退職、転職を経て、1年ほど前からまたたくさん読むようになりました

    このブログで週1ペースで本を紹介している事もあって、年間100は無理でも80くらいのペースでは読んでいます

    さて、本題です

    タイトルに書きましたが、私、どうも最近倫理観がバグってきている気がします^^

    そしてこれは、小説を読んでいるせいだと結論付けました^^

    最近読んだ本でいうと、例えば朝井リョウの『正欲』。水の動きやしぶきを見る事が性癖の人が出てきます。誰にも理解されず日々を送る中で同じ性癖の人に出会い、交流する中で、ある事がきっかけで逮捕されてしまいます

    ニュースの見出しはこうです

    「校舎に侵入した男逮捕。『水を噴き出させる事に快感』」

    これ、実際にニュース見ていてこの報道を目にしたら

    「うわ、なんかヤバい奴やな」

    って思うと思うんです^^

    でも、「正欲」を読んだ後だとそうは思えなくなります

    この経験をしてしまうと、色んな事件のニュースを見ても

    「犯罪はダメだけど、誰にも理解されない苦しみがあったのかな」

    とか思ってしまいます

    角田光代の「紙の月」を読むと、不倫はエグいけど仕方ない事もあるかもと不倫を認めそうになったり

    松本清張の「砂の器」を読むと、主人公和賀英良の殺人よりも世の中の差別や偏見が問題だろと思いそうになったり

    中村文則の「銃」「遮光」を読むと、ラストは「うわーー、それはやめてーー^^」ってなるんですが、ヤバいものを持ち歩く快感を味わってみたくなったり^^

    これを実社会で発言したりすると「こいつ、不倫OK、殺人OK、危険物所持OKの最高にヤバい奴」という判定を受けて、下手すると社会的に抹殺される感じがしてちょっと怖くなります^^

    もちろんフィクションだとわかった上で読んでいるので、実際の行動に移したりはしないのですが

    文章が美しすぎたり、ストーリーが滑らかすぎたりすると、どんどん自分の中に入ってきて新しい概念が形成されそうになります^^

    大学のゼミみたいな場所あったらいいなと最近よく思います

    教授から指定された課題本1冊をゼミ生で読んで、ゼミの時間に教授含む数人で解釈をディベートするの、けっこう楽しかったなって

    そういうイメージで、同じ本を読んだ人と、本の感想を話し合えたら、すごく豊かな時間な感じがします

    たまに本屋さんや図書館で企画している「読書会」とかに行ってみればいいのかな

    本を読む事で倫理観がバグった人どうしで話すのって、楽しそう

    でも、私含めそういう人って、実社会では普通な格好して普通な発言して異端ぶりを隠して生きていると思うので、出会いづらいのかな^^

    なんて妄想を重ねながら、今は辻村深月の「善良と傲慢」読んでます。自分の中の善良さに隠された傲慢さがあぶり出されるようです

    ここで終わろうと思っていましたが、ごめんなさい、1つだけ

    今回、作家さんの名前がいくつか出てきて、「さん付け」しようかずっと迷いながら書きました

    最初、さん付けで書いていたのですが、松本清張のときに「松本清張さん」って書くの、すごく違和感あったんですよね^^

    だから、呼び捨てで統一してみました

    現代の作家にさんを付けるのって自然な感じ(朝井リョウさん、辻村深月さん)なのに、ひと昔前の作家(芥川龍之介さん、太宰治さん^^)には違和感あるのなんでなんでしょう

    最後、一気にくだらなくなってスミマセン

    「さん付け」問題、誰か解消してください^^

    明日も投稿しまーす

  • ♯101 100回目!!

    101回目の投稿になります

    前回の投稿で100回達成しました^^

    1本目の投稿が2月15日でした

    そこから週に3~4回の投稿を続け、今に至ります

    いやー、100回ですよ^^ちょっとだけ自分を褒めてもいいかもしれません

    これからも淡々と続けていくつもりですが、一度、これまでの取り組みを簡単に振り返ってみたいと思います

    客観的な気付きを箇条書きにしてみると

    ・投稿が苦だと思った事は一度もない

    ・ネタが枯渇した事も一度もない

    ・匿名で自分をさらけ出せる場である

    ・さらけ出せる一方、他者に読んでもらえるという特殊な場でもある

    こんな感じでしょうか

    コミュニケーション手段って色々あると思いますが、私は「書く」事が性に合っていると思います

    「書く」事って「話す」事よりも遅効性がありますよね

    「あの時、なんでこういう風に言ったんだろう」とか「あの時は、こう言うべきだったよな」みたいなひとり反省会をよく開催する私にとっては^^「書く」作業はそれを自分なりに結論付け、ボックスに収納するみたいな感覚があります

    じっくり思いを表現できる場であり、それを記録しておける場

    このブログを始めてから、私は、メンタルがより安定したと思っています

    アウトプットする事ってすごく大事だなって思うんです

    書くことでいったん自分の外に出す事ができるみたいな感覚で、そのぶん脳や心に余白ができて、溺れそうにならない感じです

    自分の考えが可視化され、形として残る事って、将来振り返った時に財産になる気がします

    例えば

    今時点で、「この考え方が絶対だ」と思っていても、数年経つとそうは思わないみたいな事があると思います

    また、逆パターンとしては「これは、1年限定で頑張ってみよう」と思っていた事なども、その環境に慣れると忘れてしまって消極的な現状維持になる事もあると思います

    そうした時に、「お前、1年限定でやってみるって言ってたけど、もう3年経ってるよ」みたいな事を記録が教えてくれる事も起こり得るわけです

    これ、私、転職の時に起こりました^^

    「辞めたい」「辞めるべきだ」と思っているのに、給与はそこそこいいし、新たな進路への不安もぬぐえない

    そうすると、「とりあえず今のままでいいか」みたいな感情も出てきます

    でも、日記を見ると「1年以内に転職含め行動する」と書いてあるんですね

    そこで、ハッと我に返り行動するみたいな事もありました

    人間って、以前の自分がどう考えていたかって、忘れがちな気がします

    特に、環境に染まるとそこから新たに動き出す事ってすごくパワーのいる事です

    記録を取っていれば、過去の自分と比較して、現在の思想や行動をアップデートしていけると思います

    2026年の7月現在、私はこう思っていたっていう記録は、1年、3年、5年経ったときすごく大事なんじゃないかと思います

    「自己犠牲で自己肯定感を上げない」とか「他人に期待しない」とか「真の優しさとは」みたいな重たいトピックもあれば

    「カラオケでどう立ち回る問題」とか「ラーメン屋さんで味変できない」とか「カフェでテイクアウトできない」とかしょうもないものもあります^^

    あ、ちなみに次回は「孤独や不安は、なくそうとせず飼いならす」です。重めの方です^^

    現在は、週に5000くらいのビュー数で、700人程に訪問していただいており、そのうち300人くらいは毎回読んでいただいています

    数はまったく意識していないのですが、本当にありがたいことです

    今後とも、末永くお付き合いよろしくお願いいたします

    いつもありがとうございます