自己犠牲で自己肯定感を上げない

32回目の投稿になります

食べログ3.7より2.0くらいのお店の方が、ハズレも多いだろうけど、自分にドンピシャな店に出会えるのではないかと思ったりしている今日この頃です^^

全然関係ない書き出しでスミマセン^^ちょっと内容が重めなので、ふざけた序文になりました^^

さて、今回は「自己犠牲で自己肯定感を上げない」です

だんだん書くネタもなくなっていくかと思いましたが、まだまだありそうです

ジョギングしているときにふと思い浮かぶことが多い気がしています。忘れてしまうので、帰ってすぐメモに殴り書きする的な^^

今はだいぶ改善した自覚がありますが、私は子どもの頃から、自己肯定感が低い人だったと思っています。原因はなんなんでしょう?今度深掘りしてみようかな^^

自分に自信がないとき、私がやってしまっていたのが、タイトルにもある通り「自己犠牲による自己肯定感上げ」です

自分自身にこれと誇れるものがなかったり(正確に言うと、たぶん人並みまたはそれ以上にできることがあったとは思いますが、その良さを自認できていない状態)、長所を見ずに短所にばかり目が向いてしまっていたりすると

自分を犠牲にするくらい誰かや職場に尽くすことで「必要とされている感」を求めに行ってしまう事がありました

でも、これって、ホントにいい事?みたいな問いを、この場で自分に投げかけてみます

相手の言う事を断らずに聞いたり(ひどい時には自分からすすんで何かを提供するような挙動を見せたり)、時間外勤務を倒れる寸前まで頑張ろうとしたり、という事を以前はよくしてしまっていました

自分を犠牲にして相手を優先することは美徳のように見えます

特にそれが、一見すると人助けのように見える行為だったり、職場の危機を救うように見える行為だったりすると、その行為自体を否定されることはほとんどありません

自ら気付いてブレーキを踏まない限り、どんどんエスカレートしてしまいます

考え方の角度を変えると、相手を優先しすぎることは、自分のことを全く顧みていないことになります

相手がテイカーだったり、ブラックな職場だったりすると、この構図はどんどん深みにはまっていく感じがします

貸したお金なんて返ってこないし、過労で倒れたら取り返しのつかない事になることだってある

他者や職場に振り回される事は、その時その時を考えれば、最も安易というか流された消極的選択であるように今は思えます

つまり、自分の考えを押し殺し、主張せず尽くすことは、言い換えると相手と勝負していないというか事態を先送りしているだけという気がします

気持ち的な借金がどんどん膨らみ、返済が滞ったままという感覚といいますか…

「ノー」と断ることへの罪悪感、勇気のなさが原因なのかもしれません。もう少し深掘りすると、「ノー」と言えないという事は、自分を大切にしていないことにもつながるのではないかと思ったり…

この辺りは、堂々巡りするだけで、明確な正解みたいなものを見出しづらい感じなんですよね

だから、臨界点を越えると、ある日突然いなくなるみたいな事になるんですよね^^

やっぱり「あの人(職場)に必要とされている自分に価値がある」っていう感覚は、いびつだなと思いますし、「変だな」と思えるメタ認知を獲得できて良かったなと今は思えますね

これについては、最近読んだ本があります

社会学者であり心理学者の加藤諦三さんの本で「無理をして生きてきた人」という本です

長くなるので金曜日の書籍紹介で詳しく書こうと思いますが、自分の事、自分の母親の事がドンピシャで書いてあって、吐きそうになりながら読了しました^^

もし、このブログをお読みのあなたが同じような感覚(過度な自己犠牲による自己肯定感上げ)を抱いているとするなら、私は

「あなたは存在しているだけで十分尊い」と伝えたいですね^^

たぶん、そういう生きづらさを抱えている人って、真面目で優しい人なんですよ

だから「存在しているだけで十分」という言葉も「努力しなくていいって事ですか?それってダメじゃないですか?」みたいに思っちゃう気がするんです。以前の私がそうだったので^^

重たい内容でごめんなさい^^

最後までお付き合いいただきありがとうございました!続きは金曜日に^^

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